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第129回 徳子、皇子(安徳天皇)を出産。

その頃、高野山から、かつて崇徳上皇(当時は讃岐の院と呼ばれていました)の近臣であり、出家している教長から清盛の所へ手紙がきました。
「このところの天変地異はすべて讃岐の院様と頼長の怨霊のせいでございます。二人の霊をお慰めする事が天下泰平の道と存じます」
というものでした。清盛は、白河法皇を同じ父という噂の讃岐の院に同情していました。そこで讃岐の院を改め「崇徳院」の諡号を贈り、墳墓も改めました。
頼長には従一位、太政大臣を贈り、奈良のもはや頼長の屍とてない亡くなった場所へ宣命使を送りました。息子の師長は泣いて喜びました。
後白河法皇も、かつて世話になりながら冷たい仕打ちをした事を今更の様に悔いて、成勝寺で御八講を催したりしました。

この功徳で清盛は徳子が懐妊できたと思っていました。更に恩赦として、鬼界ヶ島に流していた三人を呼び戻す事にしました。ところが、
「平康頼と成経は生きておりますが、俊寛はすでに亡くなったそうにございます」という知らせでした。清盛は「仕方ない。二人だけでも赦免して戻せ」と言い、二人は喜んで戻ってきました。
『平家物語』は俊寛だけは許して貰えず、寂寥の念を持って島に残ったとか、また現地の女性と結婚して幸せに暮らしたとか諸説あり、さあどれが真実なのでしょうか?

さて、治承2(1178)年11月、六波羅の清盛の邸で徳子は難産の末、皇子を産みました。7年後に壇ノ浦で入水する安徳天皇です。(続く)

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