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最終回 平家は永遠に!

清盛の死の翌日、自身への追捕が無い事を確認して、後白河法皇は法住持殿に戻ってきました。そして終日、得意の今様乱舞の音曲が鳴りやみませんでした。
平家の棟梁である宗盛は苦言を呈する事もできませんでした。そして後白河法皇は陰から平家追い落としのため、各地の源氏に手を回します。
寿永2(1183)年5月、北陸の義仲を討つために宗盛は十万の兵を差し向けました。しかし義仲の巧妙な作戦に、暗い中を崖に転落死する者が続出。都に帰還できたのは七千人ほどでした。
「一旦都を落ちねばなるまい」しかし7月25日に都落ちする情報を摂政の基通を籠絡してまで掴んだ法皇はその前夜に伴一人だけ連れて鞍馬寺そして比叡山まで逃亡してしまいました。
仕方なく安徳天皇、建礼門院を奉じて平家は都落ちしますが、後白河法皇を逃した事が命取りとなりました。法皇が手中にあれば、追討までされなかった筈です。
そして敗戦の末、壇ノ浦で時子や知盛などが安徳天皇と共に入水しました。生き残った宗盛も京を引き回され、鎌倉まで連れていかれて頼朝に謁見させられ、そして帰京の途中で長男と処刑されたのでした。
京に残った平家の子供たちも次々と殺され悲運を辿りました。
しかし平家の血は滅びていませんでした。平教盛の孫娘が順徳天皇を産み、承久の乱で挫折したかと思いきや、その子孫は足利義満を産んでいます。(一説)
そして清盛の五女が藤原隆房との間の孫娘貞子は西園寺実氏の妻となって娘姞子を産みました。姞子は後嵯峨天皇の中宮となって後深草天皇、亀山天皇を産み、後深草天皇の子孫は現在の今上天皇にまで繋がっています。平家の血は途絶えてはいなかったのでした。

さて、拙い文章に長々と付き合って頂いて有難うございました。皆様の楽しみの一つになっていれば嬉しく思います。私は高齢者の集まりの「歩こう会」に入っていますが、先日『平家物語』の講義を頼まれ、今週の19日にはメンバーで須磨寺の敦盛像などを見学します。楽しみです。
一の谷の戦い以降の詳細は『平家物語誕生』でまた御覧ください。『清盛の時代』を可愛がって頂いて有難うございました!(終)

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