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第122回 後白河法皇の厳島御幸 

承安4(1174)年春、遮那王(16歳)は藤原秀衡(53歳?)が待つ奥州へ向かっていました。途中、東山道の鏡の宿で自ら元服し、「義経」と名乗る事になりました。その頃、義経は兵法書「孫子」ばかりを読んでいました。
清盛にもその情報は入りましたが、清盛は近々ある予定の、後白河法皇と寵姫・建春門院滋子の厳島神社への御幸の準備に忙しく、聞き流しました。清盛にとって義朝の末子の遺児の出奔など大したことではありませんでした。

3月16日、後白河法皇と滋子は、清盛自慢の福原(神戸)の別業に遊びに来て、それから清盛の案内で一緒に新装なった厳島神社に御幸しました。
法皇と滋子は朱塗りの大鳥居や社殿に感嘆しました。
「噂には聞いていたが、ここまで壮観とは・・・」
「相国殿、良き社を造られましたね」
法皇と滋子はその夜、灯籠の光に耀く舞楽にも堪能しました。
京にいる高倉天皇(14歳)は「いつか中宮(徳子)と参りたいもの」と羨ましがっていました。

それから2年間、平氏の全盛は続きました。
安元2(1176)年正月30日、宮中で後白河法皇の五十の賀が盛大に行われました。
平家の公達が舞い、中でも清盛と時子の末子・重衡と、重盛の長男維盛の美貌は「これが光源氏よ」というばかりに賞賛されていました。
しかし、平家の翳りはすでにひっそりと始まっていたのでした。(続く)

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