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第48回 清盛、新院方から天皇方へ。

璋子の甥・中納言徳大寺公能(きんよし:41歳)は世渡りの上手な男でした。次女の多子が美しいので近衛天皇の皇后としたのですが、7月に後白河天皇が即位すると早速10月に長女の忻子(22歳)を入内させて中宮としました。姉の頼長の妻幸子が亡くなると忠通派に鞍替えしたのです。
12月に忠通の姉で鳥羽法皇の后であった高陽(かや)院泰子が61歳で亡くなりました。父忠実と弟忠通の不和を最期まで心配していました。

翌年4月になって、今度は鳥羽法皇(54歳)が不食の病となりました。物が食べられなくなったのです。
すぐに平癒を祈って、保元と改元されましたが病は進行し、崩御が近い事が予測されました。法皇は自分の崩御後に内乱が起こる事を予測し、後白河天皇の元へ参るべき武士たちの交名(こうみょう:名簿)を書いていました。信西が開けると、
「源義朝、源(足利)義康、源頼政、平信兼、平実俊」の五人でした。
信西は美福門院得子に相談しました。
「平清盛の名がありません。恐らく父親の忠盛が重仁親王の乳父であったため外したのかと。これでは勝てませぬ」
「分かりました。何とかしましょう」
得子は清盛の継母宗子を召しました。義理の従姉妹になります。
「宗子殿、清盛殿・頼盛殿をこちらにつけて下され」
宗子はしばし考え、頷きました。そして清盛の元へ輿を走らせました。

「清盛殿、戦になれば、必ず新院方は負けます。さすれば平家は滅亡。帝の側について下され」
清盛も悩んでいました。崇徳上皇は同じ白河法皇の胤である異母兄弟。それにかつて祇園社と揉めた時、自分を弁護してくれました。父忠盛は崇徳上の皇子・重仁親王の乳父でした。
「負けても新院様の命までは取るまい。せいぜいご出家であろう」
宗子の言葉に清盛は頷いたのでした。(続く)

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