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第11回 恒貞(つねさだ)親王

恒貞親王(825~884)は淳和(じゅんな)天皇の第二皇子で、また数奇な人生を辿った方です。
父親の淳和天皇は、桓武天皇と、あの汚れ役を一身にやった藤原百川の娘旅子の間に生まれました。
非情に遠慮深い方で、同い年の異母兄嵯峨天皇の影に生きた方です。崩御する時も、「陵墓はいらない。灰を空から撒いてほしい」と言われたといいます。
私は小塩山に行った時、山頂に淳和天皇陵というのが書いてあるので行って見たらそれらしいものは見当たらなくておかしいなあと思っていたらそういう事だったのですね。

薬子の変で、平城上皇の皇子だった高岳親王が廃太子となりました。嵯峨天皇は自分の皇子ではなく異母弟の大伴親王(淳和天皇。乳母が大伴氏だったので大伴親王と命名されました。しかし天皇になると、同じ名では恐れ多いという事で大伴氏は伴氏に改名されました)を指名しました。

大伴親王は固辞しますが、許される筈もなく皇太弟となります。
13年後の823年、嵯峨天皇は譲位し、38歳の淳和天皇が即位します。そして皇太子には嵯峨天皇と寵愛する皇后、橘嘉智子の間に生まれた14歳の正良(まさら)親王を皇太子としました。
翌年、平城上皇が51歳で崩御し、また皇后を亡くしていた淳和天皇に、嵯峨上皇は正良親王と双子の正子内親王(15歳)を入内させます。
そして翌825年、恒貞親王が生まれるのでした。同じ年に業平も生まれています。

恒貞親王は聡明に育っていき、外祖父でもある嵯峨上皇は鍾愛しました。
筆も巧みで、嵯峨上皇は空海、橘逸勢(はやなり)と並んで三筆でしたが、恒貞親王は嵯峨上皇にも劣らない筆の美しさであったと言われます。

833年、在位10年で淳和天皇は譲位し、仁明(にんみょう)天皇が即位し、9歳の恒貞親王は皇太子となります。
交代に系統が即く、南北朝の様な両統迭立(てつりつ)の様な状態となってきました。淳和上皇は恒貞親王の将来を案じながら、840年、55歳で崩御します。
聡明な恒貞親王は身の危険を感じていました。仁明天皇には藤原良房の妹順子との間に、恒貞親王より2つ下の道康親王(後の文徳天皇)が生まれていました。
恒貞親王は何度も皇太子を辞退しますが、そのたびに外祖父の嵯峨上皇は慰留しました。そして承和9(842)年7月、嵯峨上皇が57歳で崩御します。

阿保親王の密書を証拠として、恒貞親王の家来たちが謀反を画策していたという事で逮捕者は60名以上、そして18歳の恒貞親王は廃太子となります。
結局、新皇太子には良房の思い通り、16歳の道康親王がなります。

恒貞親王の母、正子内親王は、娘より息子を取った実母・橘嘉智子を恨み、罵りました。まるで「ゾフィーの選択」の様ですね。

恒貞親王は、同じく廃太子とされ出家していた従兄の高岳親王の元に行き、自らも出家します。子が2人いた様ですがその子らも出家しています。

穏やかな日々がやっと訪れました。
876年2月、嵯峨上皇が愛した嵯峨離宮が荒廃していくのを惜しんで、娘である68歳の正子内親王は、大覚寺として再興し、息子の52歳の恒貞親王を開山とします。
879年3月、正子内親王は70歳で亡くなります。
しかし運命は恒貞親王を平穏にしてはくれませんでした。
884年2月、17歳の陽成天皇は、伯父藤原基経の陰謀により退位します。
次の帝を誰にするか会議が長考した時、基経は「恒貞親王を帝に」と発言します。基経は実は腹案に従兄弟の時康親王を考えていたのですが、完全に「当て馬」として恒貞親王を提案したのです。

知らせを受けた恒貞親王はもちろん固辞し、「長生きをしているからこんな目にも会うのだ」と嘆き悲しみ、飲食もしだいに取らなくなって、9月に60歳で亡くなりました。一方、信頼していた従兄弟の高岳親王は唐に渡り、3年ほど前に羅越国(現在のマレー半島)で亡くなったという知らせも入っていました。(『高岳親王航海記』などの作品あり)

藤原氏が次第に権勢を握っていく陰で、二人の親王は政争に翻弄された生涯を送ったのでした。

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