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第36回 前東宮妃という設定

東宮妃というのはもちろん皇太子の妃という事で現在でも高貴と言われる存在です。
『源氏物語』に六条の御息所という方が出てきます。「前東宮妃」であり、未亡人という事ですが、光源氏より7歳上。源氏と恋に落ち、そして激しい嫉妬で生霊・死霊となり妻や恋人たちを苦しめ、時には死に追いやります。

香子(紫式部)はなぜ前(さきの)ではあるけれど、「東宮妃」というキャラクターを設定したのでしょうか?それはいくら身分が高い人でもどうにもならぬ恋に陥るというメッセージでしょうか?

実は、恋に落ちる東宮妃として香子と同時代に密通する女性がいたのです。
女性の名は藤原兼家の三女綏子(やすこ?)。香子より4歳下で、『蜻蛉日記』の作者を苦しめた「対の御方」と言われる女性との間にできた子です。
対の御方は美しかったのか妖艶だったのか、兼家亡き後、その長男の妻の一人になっています。

さて、綏子は989年12月、16歳で2歳下の甥の東宮居貞(いやさだ・おきさだ)親王の妃となります。元服の添臥(そいぶし)だったようです。
美貌で従順な綏子は東宮に愛されますが、ある夏の日、東宮が戯言か、「私を愛しているなら、氷をいいと言うまで持っていなさい」と言うと。綏子はずっと持っていて、手が紫色になっても離さなかったので、それで却って興醒めしたという事です。(『大鏡』)
自分が持っていろと言ったのに、ずっと持ってて愛が醒めたなんて、ずいぶん男の身勝手ですが、東宮の愛は後から来た藤原済時の娘娍子に移りたくさんの子女ができます。道隆の次女原子も入内してきます。

東宮の愛を失った綏子の元へ現れる男性がいました。996年、綏子23歳の時に、源頼定という20歳の貴公子が通ってきます。
頼定とは為平親王の次男。為平親王といえば聡明で、東宮を期待されていたのに源高明(何度も出てくる光源氏のモデル)の娘を妻にしていたため摂関家から警戒され、安和の変で高明は大宰府に左遷され、為平親王は東宮になる事はありませんでした。

頼定は世が世なら、自分も東宮となり、綏子を妃にできたかもしれないという気持ちがあったかも知れません。そしてその年にはあの伊周が事件を起こして罪になっており、頼定も仲が良かったという事で軽い連座になっていて、むしゃくしゃしていたのかも知れません。

この密通は東宮の元にも聞こえていて、東宮は叔父である道長に確かめる様言います。また『大鏡』によれば、道長は異母妹である綏子の座所まで入り、乳房を捻るとさっと乳が出たので密通を確認したとあります。東宮は全く行っていなかったので頼定の子と分かったのでした。
本当なら道長もずいぶん乱暴なやり方ですが、噂好きな京の人々の事。かなりこの醜聞は広まっていて、香子の耳にも入ったのではないでしょうか?

この不義の子は産まれてすぐに僧籍となり、闇から闇へと行われています。
源頼定も美貌な貴公子だった様ですが、彼は身分の低い女性と結婚した後も、一条天皇の崩御後、女御元子とも関係を持ちます。その話はまた後日に。
現実の東宮妃の密通というのが同時期にありましたが、香子は設定をほぼ100年前にしました。即ち、醍醐天皇の皇子に保明親王という方がおられ東宮になったのですが、菅公の怨霊のせいで21歳で病死。妃は時平の娘で仁善子(にぜこ)という方で皇子を儲けていましたがこれもまた菅公の怨霊で5歳で亡くなっています。父の時平も早死にします。皇女も産みましたがその皇女が朱雀天皇の女御となって昌子内親王(第29回で紹介)を産んでいます。

「六条の御息所」の設定はこの「仁善子」に準拠したものと思われます。しかし香子は、女が持つ(男も持つ)「嫉妬の苦しみ」を御息所に委託したのではないでしょうか?


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