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第47回 後白河法皇(12)源義経(前篇)

平家追討命令を出し、木曾義仲を葬った後、法皇の前に現れたのは源義経です。法皇はいつもの様に最初溺れます。平家の時も義仲の時も初期は頼っていました。今回も義経を寵遇します。それは一つには自分の武力を持ってなかったので今回こそ自分に忠実な力になってくれる願いの元でした。
時代は武力で左右されていました。保元・平治の乱、源平の戦い。まだ朝廷が上だと思うものの武力は大切でした。

1月20日の義仲の討ち死に後、早速、法皇は一の谷に陣取る平宗盛に和議をするからお互いに戦闘は無しにしようという嘘を持ちかけます。平氏が本当だろうかと思う間に、義経と範頼の軍が一の谷に迫っていました。
そして2月7日、義経はあの鵯越から平家軍を急襲し、大混乱の内に平家は屋島へと逃げます。その時に、船に乗ろうとする味方を乗ったら船が沈むかも知れないので味方の腕を切ったり修羅場だったでしょう。
敦盛はじめ平家方の武将も討ち死にし、これでほぼ源平の勝負の行方は決まったと言われます。

9日に義経は凱旋します。私は拙著『平家物語誕生』の場面をここからにしました。(その前は前作『清盛の時代』に書いてあります。来年2月までに電子書籍化の予定)主人公源光行の父光季が義経軍に捕縛され、助命嘆願に鎌倉の頼朝に行こうと決意する場面です。

やがて法皇は頼朝と義経の関係がしっくり行ってない事をその鋭い嗅覚で見抜きます。鎌倉からの論功行賞に、義経の名がなかったのです。
どうみても最大の功労者は義経です。ただ、名乗りをあげてから戦うという当時の常識からして、背後からいきなり襲うというのは卑怯ではないかという考えは、鎌倉方にもありました。
「この兄弟はうまくいってないな」
恐らく兄の頼朝が、弟の義経の能力を警戒しているのだろうと法皇は思います。案の定嘆いている義経に法皇は左衛門の尉・検非違使を授けます。
義経は泣いて感謝しますが、鎌倉の頼朝は大立腹。もともと官位は、鎌倉に通してからと申し入れてあったのです。それを法皇は破ったのです。頼朝と義経の不和の種を蒔いたのはやはり法皇でした。

「なぜ?名誉な事なのに?」義経は理解できません。だいたいたいした手柄をたてていない異母兄範頼が三河守を貰っています。
官職を辞退しない義経に頼朝は本気で怒り、軍から義経を外してしまいます。

範頼ではやはり総大将の任は重く、次第に平家が盛り返してきました。
仕方なく翌年、元暦2(1185)年1月、頼朝は再び義経を追討軍に加えます。
そして2月19日、嵐の中を少数で屋島に行き(梶原景時は反対して行かなかった)、またも背後から急襲。宗盛らは源氏軍が少ないのうぃ知らずに船に逃げます。やっと源氏軍が少なく船もないのを見て、あの扇の的のできごとがあるのでした。(続く)

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