第37回 葵の上ー葵祭りから?
葵の上という方は光源氏の最初の正室です。光源氏が12歳で元服した時、左大臣の姫である16歳の葵と結婚したのです。
この名はやはり後に起こる葵祭りでのトラブルを想定しての名でしょうか?
祭りに酒と喧嘩はつきものです。母を早くに亡くした香子(紫式部)は同じ堤邸に住まう祖母から色々と話を聞いていました。昔、延長4(926)年の葵祭りで祖母の父定方の従者と別の公卿の従者が大喧嘩し、祖母の兄弟が石を投げられて大怪我をしたとか。
私の田舎の淡路島でも秋祭りは盛大なのですが、漁師町という事もあって荒々しいです。私が厄年の時、神輿(みこし)を担いで神社に奉納する。それをいくつかの大型の布団太鼓が邪魔をして盛り上げるというものですが、神輿を担ぐ前の方にいる人は危ないです。順番で前に行くのですが、ほんとに容赦なくぶつけて来るので怪我をしても不思議ではありません。神輿を仕切る人は常に後ろに居ましたが(笑)
十何年か前でしょうか、酒が入って罵り合いから、一人が家に帰って包丁を持ってきて刺すという本当に刃傷沙汰があって大騒ぎになったそうです。命に別状はなかったですが入院しました。また時折、骨折したとかは聞きます。
それで『源氏物語』は本当によく考えられています。結婚10年、冷たい夫婦生活が続きましたが、葵の上が懐妊、やっと夫婦は雪どけの感じを持ちます。
葵祭り当日ですが、葵は懐妊しているからと邸にいる積りでしたが、その年が光源氏が勅使となって華々しい行進をする。女房や家人たちに勧められて葵も遅くに出立する決心をします。
しかし車で行ってみると多くの人だかり。停める所はありません。私も一度葵祭りを見に行った事がありますが本当に多くの人出でした。
左大臣の姫、今を時めく光源氏の正室の車とあって、酒が入った家人たちは傲慢にも他の車を次々とのかせます。その中にお忍びで来ていた六条の御息所の車があったのでした。御息所の家人も負けてはいません。「こちらは前(さきの)東宮妃の車であるぞ」くらい言ったかも知れません。これを聞いて余計に葵の上の家人らはいきり立った事でしょう。御息所の車は壊され、後ろにやられてしまいます。御息所は帰ろうとしますが、立て込んでいて去る事もできません。
そこへ、光源氏の馬が現れ、葵の上に礼をします。御息所の惨状には気づく筈もありません。
この日の屈辱から御息所は生霊となって葵の上を苦しめるのでした。
源氏は事の顛末を聞き、「葵がもっと思いやりがあれば」などと思ってしまいます。実際、お姫様育ちの葵は修羅場にどうしたらいいか分からなかったのでしょう。止める事もできません。
紫式部は意図的かどうかは分かりませんが、高貴な身分の姫には筆が冷たいです。葵の上の歌も一首もありません。
それから後年の「若菜」の帖の女三の宮に対してはもっと辛辣です。ぼうっとしていて、そして立っている姿を柏木に見られてしまう。当時のお姫様は座っているか寝ているかしてないといけないので、立っているというのは暗に「バカ」と言っているものです。
葵の上は結局夕霧を産んでまもなく亡くなります。生霊のせいと思われました。
出産の後亡くなるというのはままある事で、皇后定子や村上天皇の皇后安子もそうでした。現代でも時折聞きます。出産というのは女性にとって大変な事なのですね。
ところで現実には光源氏のモデルである源高明は当時の左大臣実頼からも右大臣師輔からも女婿になっています。実頼の姫はすぐに亡くなった様ですが、師輔から三の君と亡くなると五の君も貰って子もでき(産んだ娘の一人は道長の妻明子となりました)大切にされた様です。
余りに師輔が婿を大切にするので、実子の伊尹や兼家が嫉妬して、師輔の死後、安和の変で引き摺り下ろしたという説もあるほどです。
そう言えば、『源氏物語』と同様、三の君と五の君の母は違うのですが、どちらも皇女で、この辺も葵の上の母が皇女だった事と一致しています。(続く)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?