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第124回 後三条天皇の即位

治暦(じりゃく)4(1068)年7月、後三条天皇(35歳)の即位式が盛大に行われました。
12歳で東宮となって東宮の生活足掛け24年。満を持しての登極です。
50年以上、摂政関白をやり、藤原氏全盛は「道長・頼通」と現代の教科書にも載っている頼通(77歳)は引退し、宇治の平等院に隠棲しました。
関白は弟の教通(73歳)がなりましたが、壮年の後三条天皇は勿論言う事を聞く筈はなく、久々の天皇親政で、新しい政策をどんどん断行していきました。

ブレインには頭脳明晰は大江匡房(28歳)がいました。
まず摂関家が大量に保有している荘園を整理して国庫の増収を図りました。延久の荘園整理令を出し、記録荘園券契(けんけい)所を設けました。後年、子孫の後醍醐天皇は建武の新政の時に「記録所」を設置しています。

また物価の上昇を抑える「估価(こか)法」、不統一だった枡(ます)を統一して混乱を抑えた「延久の宣旨枡」など次々に新政策を出して、「延久の善政」と呼ばれました。(残念ながら後三条天皇は在位5年、40歳で崩御しますが)

祖母にあたる大宮彰子(82歳)にも敬意を表しました。彰子が可愛がっていた後一条天皇の遺児の一人・馨子内親王を中宮にします。
そのため母の禎子内親王を太皇太后から陽明門院と独立させ、新たに太皇太后に章子内親王(同じく後一条天皇の遺児:後冷泉天皇の后)、皇太后に頼通の娘・寛子(後冷泉天皇の后)、皇后はそのままの教通の娘・歓子(後冷泉天皇の后)として、気遣いを見せています。

また亡き妃・茂子との間に生まれた第一皇子・貞仁親王も17歳になっており東宮としました。
貞仁親王の妃には大恩ある能信の養子能長(よしなが)の娘道子を迎えましたが、道子はすでに28歳となっており、貞仁親王は不満そうでした。(続く)

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