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第89回 美福門院得子の斜陽

得子にとって、亡き我が息子近衛天皇の皇后だった多子を、自らの娘・姝子内親王が中宮となっているのに強引に入内させた二条天皇の行動は当然、不愉快なものでした。不快の念をしたため、天皇に送りつけました。
しかし二条天皇はもう美福門院にさえ遠慮はせず、無視しました。

「まあ誰のお蔭で主上になれたの思っているのかしら。恩知らずな・・・」
得子は宮中から下がってきた娘・姝子内親王の手を取って嘆きました。

得子の計画は途中まで完璧でした。鳥羽上皇の後半生の最愛の后となり、3度目の出産で皇子を儲け、生後3か月で皇太子、そして3歳で即位したのです。(近衛天皇)。得子の権勢は絶大なものとなりました。
しかし近衛天皇は虚弱で、夭折が不安視されました。

得子は敵方ではありますが、待賢門院璋子の産んだ雅仁親王(後の後白河天皇)の皇子守仁の生母が出産後すぐに亡くなった事情を見て、守仁を養子とします。しかし途中放棄して僧籍にしますが。(この事を守仁親王は深く覚えていたでしょう)
近衛天皇がやはり17歳の若さで崩御すると、また改めて13歳の守仁親王を天皇にしようと画策しますが、父が生きているのでとりあえず東宮となりました。しかし東宮妃に自分の末娘・姝子内親王を入れ、もし皇子が生まれたらまた自分の血統が皇統となるという計画をしていたのです。

しかし姝子内親王は二条天皇の愛を失い、重病となり出家しました。見舞いにも来ぬ二条天皇を恨んで得子も病に臥しました。
二条天皇も後白河上皇も得子の見舞いには訪れませんでした。(後白河上皇は姝子内親王の見舞いには訪れましたが)
「母上(璋子)を苦しめた方じゃ」
後白河上皇は執念深い方だった様で(平家追討もそう)今更ながらに璋子を苦しめた得子への恨みが増長していったのでした。

1月に多子が入内してから急転、美福門院得子は11月23日、44歳の生涯を終えるのでした。(続く)

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