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第43回 後白河法皇(9)建礼門院徳子

建礼門院徳子との後日談を。壇ノ浦で平家が滅亡して徳子は京に帰ってきて、やがて大原に隠棲します。
翌1186年4月、後白河法皇は大原まで徳子に会いに行きます。いわゆる「大原御幸」です。何て優しい方なんでしょう、という方もいますが、いやいや今までの後白河法皇の行状から見て絶対下心があったと思います。5年前、高倉上皇が危篤の時に、まだ崩御されてないのにその后徳子を自分のものにしようとしました。
その時徳子は27歳。人形の様におっとりとした方だったと言われ、夫高倉上皇の恋人の世話までしたそうです。しかし徳子は後白河法皇の后になる事は断じて拒絶します。

それから5年。得子は32歳。かつて愛した建春門院滋子の実の姪が徳子です。後白河法皇は未練を持って様子を見にきたのです。相手は子も一族も亡くした孤独の身。幸い姉妹たちが生きていて助けてくれたようですが。
隙あらば自分のものにしようとしたでしょうが、徳子にその気はありません。脈がないと思った法皇は帰ります。

援助もしてあげません。徳子の大原での暮らしは清貧で、かつて宮中に居た時は、絹の寝具で寝ていたという事ですが、何と紙をかけて寝ていたと言われます。逆に頼朝から領地が渡されたそうです。

大原での山菜を売って、徳子を助けようとする「大原女」が出てきたのもそのためと言われます。

徳子がいつまで生きたのかは分かりません。諸説ありますが、承久の乱(1221年)の後、1223年2月に亡くなったのではないかという説があります。(69歳?)『平家物語』の草案くらいは見たでしょうか。

晩年は妹の一人が嫁いだ四条家に身を寄せていたと言われます。甥の娘貞子はこの大伯母と会った事がある筈です。貞子は西園寺家に嫁ぎ、その娘姞子は後嵯峨上皇の中宮となって後深草天皇を産み、徳子が産んだ安徳天皇以来、清盛の直系の血を繋ぐ天皇が出たのでした。

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