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第110回 以仁(もちひと)王の憂愁

永万2(1166)年正月10日、後白河上皇の第7皇子で6歳の憲仁(のりひと)親王は東宮となりました。生母が清盛の義妹で後白河上皇の寵愛する滋子であった事が関係あります。天皇は先代二条天皇の皇子の六条天皇で3歳でした。
憲仁親王の異母兄で後白河上皇の第3皇子の以仁(もちひと)王(16歳)は聡明であり、上皇の第1皇子二条天皇はすでに亡く、第2皇子も出家しているので本来なら有力な皇位継承者でした。しかしそれを警戒する滋子は法皇に頼んで、親王ではなく、皇位継承になり得ない王のままで置いておいたのでした。ちなみに王の同母姉で有名な式子内親王はきちんと内親王にされています。
以仁王や式子内親王の生母は藤原成子と言って、後白河上皇の従妹であり(待賢門院璋子の姪)6人の皇子女を産みましたが、なぜか上皇からは愛されませんでした。帝王の特徴で好悪が激しかったのです。

以仁王は、自身の将来を閉ざす平家を恨み、30歳の時にあの「以仁王の乱」を起こしますが、敗死します。しかし王の書いた令旨は各地の源氏の元に届き、源頼朝が反乱を起こす根拠となったのでした。(続く)

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