見出し画像

第72回 北条政範を殺したのは誰?

北条政範は、1189年、時政(52歳)と後室・牧の方(不詳 24歳?)の嫡男として生まれました。他に女子が4人いますが、男子は政範だけでした。

当時は、長男が必ず嫡男という訳ではなく、やはり母親の立場で決まるものでした。例えば、源頼朝は三男ですが、母が正室なので最初から嫡男扱いでした。
北条家は、義時の長兄宗時が嫡男でしたが、1180年に敗死しています。義時は分家の江間家の当主扱いでした。
嫡男が義時にはっきり決まらないまま、政範が生まれ、両親の愛も深く、1204年4月には16歳で従五位下に叙せられ、42歳の義時と全く同格になっています。もう周囲は政範を嫡男扱いし始めていました。

牧の方の尽力や後鳥羽上皇の思惑で、坊門家の信子姫が、将軍実朝の妻と決定します。牧の方の娘が信子の兄忠清に嫁いでいる事、後鳥羽上皇の妃の一人坊門の局もまた忠清の姉妹という縁でした。

1204年11月、10月14日、信子姫を迎えに行く晴れの使いとして容姿端麗な若者が選ばれ、政範や畠山重保(16歳?)などが選ばれます。母牧の方としては晴れがましい気持ちだったでしょう。
しかし事は暗転します。京に着く直前に政範は病にかかり、京に着いた2日後の11月3日、16歳の若さで亡くなってしまうのでした。
時政が同行していたという説もありますが。

京で、牧の方のもう一人の娘婿平賀朝雅(24歳。大河ドラマでは演技はうまいけど、24歳には・・・)と畠山重保が口論し、それを聞いた牧の方は同行しながら息子だけ見殺しにしたと重保を恨みます。

そして重保の父・畠山重忠が謀反という事で御家人をたきつけ、北条義時ら4万の軍が僅か150騎ほどの畠山軍を打ち破り、重忠も亡くなるのでした。
そして冤罪を生んだ事や、実朝を廃そうとしていたという事で、時政・牧の方は伊豆に追われ、平賀朝雅も誅殺されます。

最終的に、天下を取ったのは義時でした。畠山の領地武蔵の国もちゃっかり所有し、位も従五位上に上がって、時政の後継者として執権になったのでした。
2時間ドラマだったら、殺人があって一番得をした人が犯人?という事になります。ただ、政範もほんとに病死だったのかも知れないし、毒殺だったかも知れないし、これまた謎の事件です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?