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第35回 業平、東国へ(3)

『伊勢物語』第9段を読み進めていきますと、「いとおほきなる河あり、角田(すみだ)川という」とあります。今の隅田川でしょうが昔はそう書いたのですね。
そして「白き鳥の嘴(はしーくちばし)と脚とあかき、鴫の大きさなる・・・京には見えぬ鳥なれば・・・『これなむ都鳥』といふ」
とあります。都鳥とはユリカモメの事だろうという事です。確かにネットで見ると、嘴と脚が赤くて、白い鳥でした。(夏と冬では少し色が変わるとか)そして渡り鳥であるという事も今更ですが知りました。主に関東に飛来して(納得!)、京都には1974年になって現れたと書いてありましたが、それってほんとに最近ですよね。「京には見えぬ鳥」の筈です。

そしてもちろん業平は歌を詠みます。
「名にしおはばいざこと問はむ都鳥 わが思ふ人は在りやなしやと」-都鳥という名を負い持つなら、さあ尋ねてみたい。都鳥よ、私が想う妻は無事でいるかどうかー
これを聞いて、舟に乗っていた人は皆泣いた、という事ですが、よく泣きますよね。ところで『伊勢物語絵巻』にも舟に乗って、都鳥が数羽いるのを袖を目に当てている一行がいるのですが、その中に僧がいます。僧っていたかなあと思ってたら、どうも後年、高子と密通の噂を立てられて東国に流された善祐という僧を描いた様です。それにしてもこの年は862年。善祐が流されたのは896年ですから、30数年の開きを1枚の絵に描くって遊び心があるというか、業平と善祐を同じ場面で描きたかったのですね?

そして一行はやっと目的地の那須温泉に着きました。湯に入りながら
「ここは聖武天皇の御代に手負いの鹿が入っていたので『鹿の湯』と呼ばれるそうな」という話もしたでしょう。
さて、一行は帰路に業平の異母兄行平が守を務める信濃に寄ったと思われます。国府は現在の松本市の様ですが、そこで行平に浅間山に行く事を勧められたのではないでしょうか?第8段にあります。
 浅間の嶽(たけ)に、かぶりの立つを見て、
「信濃なる浅間の嶽に立つけぶり をちこち人の見うあはとがめぬ」-信濃の国にある浅間山に立つ煙を、遠近の人々はどうして見とがめないのだろうかー
私も友人と浅間山を見た事があります。その煙がもうもうと立つ勇壮な景色。昔からそうだったろうし、江戸時代には大噴火があり、多くの方が亡くなりました。そしてその噴煙は風に乗って遠くヨーロッパまで言って小麦の凶作を呼び、フランス革命にまで繋がったという説に私は今更ながら驚嘆しました。

一行は、10月頃、京に戻りました。5か月間の優雅な官費旅行でした。
そして業平は叔父の高岳親王(64歳)が無事唐に着いたという事を知りました。
その頃、京では菅原道真(18歳)というすごい秀才が出てきたという噂で持ちきりでした。(続く)

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