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第33回 一帝二后の先例

長保2(1000)年2月、道長の野望の一つが火を噴きました。
昨年11月に入内した可愛い長女彰子は女御でした。位が高い后妃の中宮には定子がいます。そして定子はまた前年11月に第一皇子敦康親王を産んでいます。
古来より中宮の産んだ皇子が東宮に立つのが通例でした。(特に皇后・中宮の産んだ第一皇子で東宮になれなかったのはこの敦康親王だけでした)
道長は将来の勝負のためにも彰子を中宮にしたく思いました。
ここで道長は側近の知恵者・行成(三蹟としても有名)に相談しました。
やがて行成は妙案を持ってきました。
「皇后の別称が中宮でございますが、ここは分けて考えましょう。即ち中宮定子様を皇后に、そして彰子様を中宮にするのです。すでに先代・道隆様が皇后と中宮を使い分けされております」
確かに皇后と中宮を別々に使いだしたのは亡き兄・道隆でした。しかしその時は円融天皇(一条天皇の父)の中宮であった遵子(公任の姉)を皇后とし、道隆の可愛い長女定子を女御から中宮にしたので別の天皇の后でした。

今ここの同一の天皇の同格の后として皇后・中宮が並立する事になったのです。かなり横紙破りという事になります。
道長は不安がりました。
「さすがに公卿どもが反対せぬかのう」それに対して行成は自信を持って答えました。
「藤原の后は大原野神社の祭りを行わなければなりません。ところが現在東三条院様(道長の姉詮子)を始め遵子様、定子様も皆出家して仏門に入っております。(定子は一度出家していた)神事を行うためにはもう一人、出家されてない藤原の姫を后にせねばなりませぬ」
それを聞いた道長は歓喜し、「そなたの子孫は必ず面倒をみます!」と言うのでした。
香子たちもこの横暴には驚きましたが、一度挙行してしまうと、それから一帝二后は当り前となりましたが、どちらかと言うと当時は「中宮」に勢力の強い方がなる感じだった様です。(続く)

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