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第103回 東宮妃に嬉子がなる頃

刀伊の入寇の翌年、寛仁4(1020)年6月、参議源頼定は病となり、44歳で亡くなりました。夫人はかつて一条天皇の女御(承香殿)元子です。
しかし葬儀を元子の所有である筈の堀河院で行う事をわからずやの父顕光が反対し、元子はかつて駆け落ちした思い出の車宿(くるまやどり)で行いました。そして8月に元子の出家しました。女の子二人を儲けていました。

10月に道長の異母兄・大納言道綱が66歳で亡くなりました。『蜻蛉日記』の作者の唯一人の実子です。しかし実資の日記『小右記』には道綱が酷評されていて「自分の名前しか書けない」とか「仕事をすぐ別の人に振って何もしない」。そんな人が大臣を望んでいるがとんでもない事だと書いてあります。まあ後半の表現の人は今でもいそう?私ではないと思いたいですが(笑)
またこの頃、香子の娘賢子(22歳)は、公任の子・定頼(26歳)と恋愛関係になります。賢子の恋愛遍歴はこれから続きます。

翌年正月7日、道長の長男で内大臣の頼通と右大臣の顕光が従一位に叙されます。生前では最高位です。(正一位は没後)道良としては小一条院の事もあり、慰めの積りだったでしょうか。

そして2月1日、道長の五女(倫子腹では四女)で15歳の嬉子が、甥である13歳の東宮敦良親王の妃となります。この前、「一家三后」を成し遂げましたが、今度は「四后」も見えてきました。

道長一家の栄光を横目で見ながら、5月25日、顕光は78歳で亡くなります。そして面と向かって文句が言えなかった道長に、怨霊として祟ると言われ出しました。(続く)


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