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第91回 源光(ひかる)殺人事件

源光(845-913)-まるで光源氏の名の様ですが、似ているのは名前だけで、特に美男とも女好きとも伝わっていません。むしろ当時としては珍しく女性に対しては淡泊な方で、事務方と言った所でしょうか。
彼はあの菅原道真と同年で、官位をスルスルっと追い越されていく事に非常に怒りを持っていました。一世源氏ですから身分に関してプライドが高かった訳です。アンチ道真の中でもトップクラスでした。

道真左遷の後、右大臣を襲った訳ですが、左大臣時平が亡くなった後も、昇進しないというかさせて貰えませんでした。これは醍醐天皇に嫌われていたというより、光を左大臣に上げてしまうと、大納言であった忠平を右大臣にしなくてはならず、それを忠平嫌いの醍醐天皇がしなかったのではないかと言われています。

当時「道真怨霊」の嵐が吹きまくっていました。道真を苛めた人物は次々と他界し、時平が亡くなった時には最高潮となっていました。
しかし一人それを笑い飛ばしていた人物がいました。「西三条の右大臣」と言われた光です。「そんなものがある筈がない」と言い切る光の存在は、道真怨霊を展開して自分の地位を上げようという忠平にとってはとても邪魔な存在でした。忠平こそは道真の姪を妻とし、道真と同じ法皇派に属していたから怨霊の被害は受けなかった訳です。光は69歳ながらしごく健康で、病死しそうにはありませんでした。しかしここは光に道真怨霊の被害者となって貰う必要がありました。

光の日常を調べました。光は鷹狩や乗馬が好きで、時には家来を振り切って一人飛ばしていたという事が分かりました。かつて868年閏12月に同じく乗馬が好きだった左大臣源信が摂津で落馬して59歳で亡くなっています。

延喜13(913)年3月2日、それは決行されました。
いつもの様に鷹狩に出た光はまた家来を振り切って馬を飛ばします。そして家来が追い付いた時、沼のほとりに愛馬だけがいて、光の姿は見えませんでした。本来なら沼をさらう所ですが、忠平の新しい妻の兄が検非違使になっていて、しようとはしません。そして宇多法皇(47歳)から早く決着せよと苛立った命令が来ます。
実は宇多法皇は3月13日に後世に「亭子(ていじ)院歌合」と伝わる、恋人であり歌人である伊勢を中心に多くの歌人を集める大々的な歌合を計画していたのです。むしろこれに合わせて、光の失踪はなされた感じがします。
ついに歌合の前日、遺体が見つからないまま、光の衣服で葬儀が行われ、決着しました。遺体はどこに隠されたのでしょうか?
光と宇多法皇は叔父甥でありながら不仲でした。同じ賜姓源氏なのに謎めいたやり方で皇位に即いた甥に光は不信の目を向けていたのです。

時平と並んで一番道真を圧迫し、道真怨霊を笑い飛ばしていた光は謎の死を遂げました。一旦沈静化しかけていた道真怨霊はまたも燃え上がるのでした。それは10年後、醍醐天皇の皇太子の皇子が21歳で若死にした時、最高潮に達します。(続く)

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