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第87回 二代の后

先帝の后を入内させるなどやめなさいという父・後白河上皇の忠告など無視し、二条天皇は、多子(まさるこ)の実父・徳大寺公能(きんよし)に圧力をかけました。
公能は、世渡り上手だけが取り柄の男でした。かつて姉の夫である藤原頼長が権勢を振るっている時は、その巾着(きんちゃく)としておこぼれに預かり、頼長の分が悪くなり、忠通派の擁立した後白河天皇が即位とみると、手のひらを返したように今度はすぐもう一人の娘を后として差し出し、頼長を見捨てました。変わり身の早さに人々は舌を巻きました。

公能は、泣く多子に哀願しました。
「今はこうするしかないのじゃ。それにもし、そなたが皇子を産めば国母と崇(あが)められる事もあろう。この父を助けると思って言う事を聞いておくれ」
調子のいいことを言う父のために、永暦元(1160)年1月26日、多子は二代の后となり、入内しました。
噂通りの美貌に、五つ下の18歳の二条天皇は大満足でした。天皇が数え3歳の時に亡くなった祖母で、また絶世の美女と謳われた璋子はこの様な女人であったかと二条天皇は思うのでした。(続く)

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