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第117回 天喜(てんぎ)の頃

天喜という年号は1053年1月~1058年8月までの短い間ですがそれなりに様々な事がありました。
まず元年には昨日書いたように、3月、宇治の平等院鳳凰堂落成、6月に道長の未亡人倫子の90歳での死と、東宮に貞仁親王(後の白河天皇)が生まれた事がありました。

天喜2年7月、すでに入道であった前右京大夫・従三位道雅が63歳で亡くなりました。中の関白家伊周の長男として最高の幼児時代を送りました。
しかし三条上皇の皇女当子内親王の悲恋を経て(『百人一首』今はただ・・)、酒・博打・喧嘩と荒れまくり、「荒三位」と人々に呼ばれました。結婚した妻とも別れ、寂しく生涯を終えたのでしょうか?
関白道隆(今度大河で井浦新さんが演じられるので楽しみです)の後、伊周が順調に政権を取っていたら道雅の人生も変わっていたでしょうが、道長という英雄が出てきたので仕方ありません。

天喜4年8月には陸奥(東北)で安倍頼時の乱ーいわゆる前九年の役が始まりましたが、京では大江匡房が16歳の若さで難しい省試に合格した秀才だという噂で持ちきりでした。匡房は後冷泉天皇や東宮尊仁親王にもよく仕える事になります。

天喜5年、参議源俊房(23歳:源師房の長男)が前斎院娟子内親王(けんし?:26歳:後朱雀天皇の皇女、母は禎子内親王)と密通し、娟子内親王は俊房の邸に駆け落ちしてしまいました。
内親王の弟、東宮尊仁親王(24歳)は怒りましたが、9月に降嫁という形で、二人の結婚は正式に認められました。私は最高権威者・大宮彰子の同意があったと思います。かつての道雅・当子内親王の悲劇の再現は嫌だったでしょうから。

天喜最後の年、天喜6年2月16日に、賢子(60歳)の夫・大宰の大弐、高階成章が69歳で亡くなりました。正月に正三位に昇進し喜んでいたのですが。
未亡人賢子は大弐の三位と呼ばれるようになりました。二人の間に生まれた男子・為家はその時、21歳ですが後年白河上皇の院の近臣として仕えたり、関白・藤原師実の家司となったり世渡り上手な感じです。子孫は皇統に繋がっています。賢子にはもう一人娘がいた様です。

同じ2月23日に、何と道長が贅を尽くして造った巨大な法成寺が全焼しました。「京都御堂」とも称され、道長の別名である「御堂関白」の由来になりました。
関白頼通は大いに落胆し、使いを道長の墓に送り、謝罪しています。
やがて法成寺は再建されたようです。

こうして8月29日、天喜から康平へとまた改元されるのでした。(続く。最終回近し?笑)



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