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第78回 平治2年の正月の頃

夫死すとの報を聞いて、長田忠致の娘でもある鎌田正家の妻は真実を確かめ、胸に刃を突き立てて自害しました。(川に入水した説もあり)
忠致は娘の死を「これも運命(さだめ)よ」と言って葬り、上洛の準備をしました。
一方、京では1月6日、後白河上皇は自身の住まっていた二条殿が焼失していたので、八条堀川の藤原顕長の邸に逗留していました。
そして暇なので、桟敷から行き交う人を見て、今様や踊りができそうな人を見つけたら、庶民でも邸に引き入れていました。

二条天皇はそれを聞き、不快で、腹心の経宗と惟方に命じて桟敷に板を打ちつけて外を見えなくしてしまいました。二条天皇と後白河上皇の不仲は前からでしたが段々激しくなる様でした。
二条天皇としては自身が生まれるとほぼ同時に生母が亡くなり、そして美福門院や覚性法親王の所をたらい回しにされ、面会にも来ない父を父と思った事はありませんでした。そして本来なら今様狂いの父ではなく、自分が皇統を継ぐのに父親が在世なので繋ぎで帝位についたと思って全く尊敬をしていませんでした。
後白河上皇は「我が世にありなしは、この経宗、惟方によるもおのなり」と悔しがり、嘆き、平清盛にすがろうとしました。しかし清盛夫妻は二条天皇の乳母であり、ここで清盛は上手に両者の間を動いたのでした。(続く)

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