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第21回 源義経の悲劇(2)

一の谷の戦いの後、義経は頼朝から戦線を外されます。
他の武将たちからも、当時、自己紹介をしてから戦うのに、義経の奇襲戦法は卑怯だと不評でした。

しかしそれから1年。範頼を大将とする源氏軍は平家に対して苦戦。このままだと戦意に影響するというのでまた義経が大将に抜擢されます。

1185年2月屋島の戦いで、またも奇襲。平家軍は壇ノ浦へと逃げます。
その前に那須与一の扇の的があります。
そして3月。壇ノ浦の戦いで平家のほとんどが滅亡します。

兄頼朝に褒めて貰えると思っていた義経は、鎌倉直前まで来た時に拒絶されます。そして傷心のまま京都に帰ります。
京都で、義経は頼朝の放った刺客に襲われます。
ここで義経は頼朝と闘う事を決意して、兵を集めるために九州へと船で行きます。
しかし冬の瀬戸内海。今でも港としてある大物(だいもつ・尼崎)から船を出したものの嵐にあって難破。紀伊半島まで押し戻されてしまいます。屋島の時には嵐に乗って攻め込んだのですが、もう義経にツキはありませんでした。

そして吉野で静と別れ、北陸を経由して一時期を過ごした奥州の藤原秀衡の元に身を寄せます。しかし秀衡がやがて亡くなり、頼朝を怖れる泰衡から攻められ、義経は31歳の生涯を終えるのでした。泰衡も結局殺され、奥州藤原氏は滅びます。まさか頼朝はここまで計算してわざと義経を逃がした?とは少し穿(うが)った見方でしょうか?
主人公・光行は頼朝の冷たさをまざまざと見たのでした。

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