見出し画像

第36回 業平再出仕と御霊会(ごりょうえ)

東下りから戻った次の年、貞観5(863)年2月、39歳の業平は左兵衛(さひょうえ)権佐(ごんのすけ)として本格的に宮中に復任しました。
3月には次侍従となりました。14歳の清和天皇に直に仕える訳です。
『高子はこの帝に本当に入内するのだろうか?』
青白くか細い(清和天皇は31歳で崩御しました)帝にそんな思いを持って拝謁しました。帝は優しく笑っていました。

同じ侍従の仲間には顔見知りがたくさんいました。まず舅でもある紀有常(49歳)。有常の娘を妻としながらもいまいち不仲なのを有常は不問に付していました。それから高岳親王の子である従兄の在原善渕(よしぶち:48歳。平城天皇の子孫は全て在原姓となっていました)そして藤原式家の良近(よしまさ:41歳)。他に藤原山蔭(40歳:子孫に道長の母時姫)。全員業平より年上でした。
業平より2つ年上の良近は、かつて父吉野が承和の変で追放された中納言でした。業平の父阿保親王が「密告者」の烙印を押され、60人以上が追放された事件でした。

二人だけになった時、業平は意を決して言いました。
「良近殿、父は無実でございます」
「分かっておりますよ。全て誰の陰謀か・・・」
あれから20年の月日が流れていました。

その年の5月20日。春からずっと咳(がい)病~現在のインフルエンザ~の死者が増えるので、太政大臣良房は、神泉苑に御霊会を修める事にしました。無実の罪で非業の死を遂げた六人が選ばれました。
早良親王(崇道天皇)、伊予親王、その母吉子、藤原仲成、橘逸勢、文室(ぶんやの)宮田麻呂です。六霊座を設けて、花果を供えました。
責任者は良房の養子で高子の兄である28歳の新進気鋭の基経でした。
当日は雅楽が鳴り、帝に近侍の児童が舞いました。
神泉苑の四門を開いて、民衆が自由に加わる事を許しました。

基経はきちんと職務を全うし、良房の後継者たる資質を皆に見せました。この御霊会は何度かされ、霊座のメンバーの変わりながら、後の祇園祭に発展したという事です。(続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?