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第44回 姫君たちの悲劇

長保3(1001)年4月に夫が亡くなり、香子が『源氏の物語』(当時はそう言われていた)の執筆に勤しんでいた頃、京ではいろいろな事が起こっていました。
まず1002年6月、敦康親王の世話をしていた、定子の妹、道隆の四の君が亡くなったのですが、何と懐妊していた。相手は一条天皇です。定子の面影を持つ妹を愛したのでしょう。しかし懐妊中に亡くなるとは何とも、道長方にとっては都合が良すぎます。ただの病死ではなさそうですね。
数え4歳の敦康親王は、道長の邸に移されます。今までも儀式の時は道長がやっていたのですが養育まで完全に見るという事です。これは以前にも述べましたが彰子を養母として、皇子が生まれなかった時の事を考えていたのでしょう。

同じ6月に姫君ではありませんが、冷泉上皇の第二皇子為尊親王(母は道長の姉で亡き超子)が26歳の若さで亡くなります。異母兄花山天皇の叔母を正室に貰っていたのですが、和泉式部と恋仲になり、伝染病が流行る中、夜歩きをしすぎたせいと書物には書いています。まあコロナの中、出歩いていた様なものでしょうか。

8月には亡き道隆の次女で東宮妃だった原子が血を吐いて亡くなります。かつて姉中宮定子との華やかな対面は過去の事。世上ではもっぱらもう一人の妃娍子の手の者の毒殺と噂されました。先の四女といい、落ち目の中の関白家の凋落が感じられます。

ところで為尊親王が亡くなってからまもなく、弟の敦道親王と和泉式部が恋仲になって、敦道親王の二人の妃、娍子の妹と、亡き道隆の三の君を苦しめます。年上だけど和泉式部って魅力的だったのでしょうか?小悪魔的な?

1004年2月には、東宮妃の一人ながら、東宮の愛を失って、源頼定との密通で子まで成したという綏子が31歳で亡くなります。
頼定は諦めがついたのか、中流貴族橘輔政の娘と結婚しますが、頼定はやがて一条院の崩御後、承香殿の女御元子とも通じます。やはり妃が好きだったのでしょうか?

しかし現・東宮妃の死で、香子は物語に入れる前東宮妃「六条の御息所」を描きやすくなったと思ったのではないでしょうか?考えすぎ?

そんな中、香子は清少納言から思わぬ挑発を受けます。(次回)

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