第88回 じわりと道真の怨霊。
延喜5(905)年に撰進が命じられた「古今和歌集」は約8年後に完成したと言われます。その後も増補が続きました。紀貫之は、尊崇する業平の歌ばかりを30首ほど集めて何か物語のようなものができたらと考えたかも知れません。それが『伊勢物語』の原形になったでしょう。
さて、その年の11月、左大臣時平の嫡男保忠(やすただ)が、16歳で元服します。目出度い左大臣家ですが、やがて道真の怨霊に悩まされ、時平は39歳で、保忠は47歳で後継ぎを遺さず亡くなってしまいます。
12月28日には陽成上皇(38歳)の第一子・源清蔭(22歳)が侍従として醍醐天皇の元に出仕します。事故死した源益の妹との間にできた子です。
これに宇多法皇(39歳)は感慨を覚えた事でしょう。法皇はかつて陽成上皇に侍従として仕えていました。命令があれば、舞ったり、業平と相撲を取らされて投げ飛ばされて落ち込んで出家しようとしたり。今や、子供の代で二人の立場は逆転したのです。
この年に業平の次男。在原滋春(しげはる)が甲斐に旅行中に亡くなったという記録があります。年齢は不明です。『業平集』が『伊勢物語』になるのを待ち望んでいたでしょうか。
翌年2月、醍醐天皇の外叔父である大納言定国が四十の賀をしました。道真に反発し追い落とした人物でした。
そしてその賀の僅か5ヶ月後の7月、定国は急死してしまうのです。
「道真様の祟りじゃろうか?」
ひそひそと噂が出始めました。道真の長男で土佐に流されていた高視(たかみ:31歳)を元の従五位上・大学頭(かみ)に復す宣旨が出されました。
宇多法皇はこんな動きを尻目に10月、自らの四十の賀を盛大に行っています。
尚、法皇の養母で大恩ある淑子が5月に69歳で亡くなっています。淑子はすでに従一位でしたが、法皇は正一位を贈っています。
もう一つ、時平が伯父国経から奪った若い妻(業平の孫娘)がこの年、男児を産みました。(後の敦忠:逢ひみての後の心にくらぶれば・・)(続く)
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