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第118回 賢子の機転

康平2(1059)年、宮中に一大事が起こりました。
後冷泉天皇(35歳)が女房の一人である、安楽寺別当の娘に手を付け、懐妊させてしまったのです。
江戸時代の将軍なら、母親の身分はどうであれ、長男の誕生は目出度く、すぐにお世継ぎとなったのですが、平安期の天皇の場合はそれなりの公卿の娘でないと都合が悪くなった様です。少し理解ができるようなできないような・・・。

祖母である大宮彰子(72歳)は驚いた事でしょう。そしてここで頼りになるのは古女房・賢子(61歳)です。賢子は秘かにその女房を匿い生まれた皇子を、何と我が子高階為家(22歳)の養子にしてしまいました。その養子為行は順調に成長し、またその子孫は皇統に繋がります。
手慣れた賢子の行動に彰子は感謝した事でしょう。しかし賢子は母・紫式部から聞いた事がありました。
「具平親王様が、義理の叔母である側室・大顔様(夕顔のモデル)が亡くなった時、表には出せない男児を伊祐(紫式部の従兄)の養子とした」
賢子はそれに倣ったのです。彰子ももちろん思い出しました。その男児は藤原頼成となってその娘祇子は頼通の子・師実や寛子を産んでいます。
また後冷泉天皇の皇子を産んだその女房は、貴族藤原師信の妻となりました。これも大宮彰子と賢子の二人の老女が勧めた事でしょう。

同じ頃、その摂関家の後継ぎ・師実(18歳)が結婚前でしたが、姉皇后寛子の女房に通じ、男児を儲けてしまいました。周囲は慌てて、従姉にあたる、権大納言・源師房の娘麗子(20歳)と結婚をさせたのです。(続く)

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