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第118回 殿下(てんが、でんか)乗合事件

嘉応2(1170)年7月3日、事件が起こりました。
夕刻、平重盛の次男資盛(すけもり:10歳)が女車に乗って帰宅する時、法勝寺に参詣途中の摂政・基房と出くわし、車から降りたものの、それが遅かったのが非礼であるという事で、資盛以下、近習も散々に打ちのめされたのでした。
夕刻であったため最初は分かりませんでしたが、後で基房はそれが平家の御曹司・資盛と知り、後難を怖れて重盛に詫びの使いを送りました。しかし重盛は激怒していて使者を追い返しました。
「いたいけな子供にこんな事をして」普段は温厚な重盛でしたが、子供が辱しめられたのと、自身の母も摂関家の落胤であるという微妙な血縁の因縁が冷静さを失わせていました。

基房は恐れて外出をしませんでしたが、10月21日、高倉天皇(10歳)の元服式の打ち合わせに参内しなければならず、参内途上で重盛の家人たちに基房一行は散々に打ちのめされ、従者の髻(もとどり)はすべて切り落とされました。「昔日の摂関家の世なら、こんな辱しめも受けぬのに」
基房は情けなさに、よよと泣いたと言われます。

『平家物語』ではこれは清盛の命令だとされています。『平家物語』は清盛を悪人としたく、その逆効果として重盛を善人に描くふしがあります。
事実は清盛が仲裁に入り、基房に太政大臣を贈って、重盛と基房は和解したという事です。(続く)

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