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第45回 後白河法皇(11)木曾義仲(中篇)

1183年7月25日、平氏が都落ちしてすぐ、27日後白河法皇はお付きの者と還京します。そして28日、義仲が入京してきて、叔父行家と共に蓮華王院で法皇に謁します。そして平家追討を命じます。
後白河法皇は昔は世話になったけれど、邪魔になっていた平家を追い払ってくれ、武力を持たない自分の家来になってくれると最初は喜んでいました。
しかし美男で色白ながら、木曾の山家育ちの義仲は粗野で物事を知らず(当たり前ですが)、法皇は早くも不快になっていきました。また百戦錬磨の法皇は、義仲と行家が序列を争っているのを見抜きます。

更に、安徳天皇を見限って、新しい天皇を亡き高倉上皇の三の宮や四の宮にしようかと公卿たちに諮っているのを聞いた義仲は、「以仁王の遺児の北陸の宮を」と比叡山の僧を通じて奏上して、すっかり法皇の心証を害してしまいます。他の公卿も「皇位継承に口を出すとは」と呆れ顔です。平家と共に連行された筈の摂政で法皇の愛人の近衛基通も、京に逃げ帰っています。平宗盛の掌握もザルだったのでしょうか?結局、権勢を持っていた丹後の局の案で四の宮の後鳥羽天皇が4歳で即位します。
義仲にしてみれば、平家を追えたのも「北陸の宮」という盾があったから自分の主張は当然と思っていました。

法皇が決定的に義仲に愛想を尽かしたのが、義仲の家来が京の中で掠奪を働いた事です。その年は飢饉がひどく、慎重な頼朝も助言を聞いて入京しなかったくらいです。
しかし義仲はこれを取り締まろうとはしませんでした。戦いに勝てば掠奪は給料代わりの当たり前の事だったのです。(今もロシアがウクライナにしている?)これに法皇が苦言を呈すると「公卿や皇室のものを奪ってはおりませぬ」と口答えします。義仲にすれば、飢饉に対する朝廷の無策を暗に批判しています。(これも政府にあてはまる?)

法皇は9月に「西国の平家を追討するように」と言って義仲軍を京から追い払います。その前に、行家を派遣していて「行家も行っておるぞ」と対抗心を煽る事を忘れていませんでした。

その隙に、法皇は鎌倉の頼朝とお互い連絡を取り合います。もう頼朝に乗り換える気、満々です。そして10月に「東海道・東山道の支配を頼朝に任せ、年貢をきちんと上納する」という「寿永二年十月の宣旨」というのを頼朝と取り交わします。当時、年貢の徴収に朝廷は困っていたので支配させてやるから年貢は持ってこいという事です。何か無責任?

何も知らない義仲は西国で苦戦していました。特に水島の戦いは船の戦いで平家側は慣れており、また途中で日食が起こってこれも暦で知っていた平家は承知でしたが、分かっていない義仲軍は大混乱、惨敗します。

そして義仲は、法皇が頼朝と公然と取り決めした事に驚き帰京し、「お恨み申し上げます」と奏上します。東山道には義仲の領地もあり、これでは頼朝の家来となっています。しかし宣旨の取り消しを求めても、もう頼朝がついていると思う法皇は強気に出ます。
義仲の家来たちも情勢を見てどんどん頼朝側へ鞍替えします。
食い下がる義仲に、ついに法皇は最後通牒を言い渡します。(ハル・ノートみたいな?)
「早く西国の平家追討へ行け。京に留まれば謀反人とみなす」
えぐい言葉です。これが言えるのが後白河法皇です。

どれだけ法皇のために尽くしたかと義仲は情けなく、ついに11月19日、法皇の法住寺殿を焼き打ちします。もちろん法皇の命を取る積りはなく、身を捕え、後鳥羽天皇と共に幽閉します。(後篇に続く)

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