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第7回 冷泉院(2)

成長するにつれて、憲平親王の奇行が目立ってきました。記録によると、朝から晩まで蹴鞠を一人でしていて、足が怪我していて周囲が止めても続けた。番小屋の上に登って、大きな声で歌を歌っていた。父村上天皇への返事の手紙に、男性器の絵を書いた・・・など凶暴性はないのですが、やはり周囲の人々は異常だと思い、父・村上天皇、母・皇后安子、そして外祖父である右大臣師輔の心配は尋常ではありませんでした。

安子はその後二人の皇子ー為平親王と守平親王を産んでいて、特に憲平親王より二つ下の為平親王は英明であり、期待されていました。
憲平親王が11歳の時、一番の後ろ盾であった外祖父・師輔は53歳で亡くなってしまいました。生きていれば二人の天皇の外祖父として道長と近いくらいの権勢を誇ったのではないかと言われています。

憲平親王が14歳になった時、元服。そして妃として同い年である朱雀院のただ一人の皇女・昌子内親王が入内します。
しかし夫である憲平親王の異常性に怯えた内親王は三条の宮に移ってしまいました。
考えあぐねた師輔は、息子伊尹(これまさ:安子の長兄)の娘・懐子(19歳)を添い臥しとしました。懐子は父の言う事をよく聞いて、親王の相手をしたのでした。
翌年4月、安子は選子内親王を出産した後、産後の肥立ちが悪く、東宮憲平親王の将来を案じながら亡くなりました。(38歳)

その2年後、懐子は皇女を産みました。「皇子を産ませるまでは憲平親王も利用価値がある」伊尹はそう思っていました。
同じ年の11月、15歳になった英明な為平親王は、右大臣源高明(村上天皇の異母兄・師輔の女婿)の娘と宮中で婚礼の式をあげました。
村上天皇は喜んでいましたが、藤原氏は高明の進出を警戒しだしたのでした。この年に、あの道長が生まれています。 (続く)

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