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第72回 寛弘7(1010)年正月の事(2)

喜びに沸く道長一家に対して、中の関白家の凋落は気の毒なものがありました。
前年11月25日の中宮彰子2番目の皇子誕生までは、ひょっとしたら、伊周にも復権があるのではないか。皇子1人ならもしかして伊周の甥の敦康親王の即位となればまた伊周の天下かも知れない。

公卿たちは昼は道長の元へ参じ、夜はこっそりと伊周の所へご機嫌伺いに来て両天秤にかけていたのです。
しかし世の中というのは無情なもの。彰子に二人の皇子が生まれてから、ぴったりと伊周の所へ来る客はいなくなりました。

伊周は絶望しました。中の関白家の御曹司として生まれ、一時は道長よりも上位の官職で、会議では罵り合うばかりの舌戦をしていたのに。
「どこで私は間違えてしまったのだろう?」
思えば愛人の元に花山法皇が通っていると誤解して襲撃したのが運の尽きでした。女で結局伊周は失敗したのです。

12月から伊周は寝込み、正月に入って容態は重くなりました。まだ37歳です。嫡男の道雅は18歳。今後とも辛苦の道が待っており、荒れて「荒三位」という異名までつけられてしまいました。

心配なのは二人の姫です。どちらも美貌で末は妹定子のように后にでもと夢見ていたのですが、それも叶いません。
「人に笑われる事のない様に暮らせよ」
それだけ言って、伊周は無念の生涯を終えました。

しかし伊周の希望は最終的に叶いました。長女の方は、道長の次男頼宗(母は高松殿明子)に貰われて三男三女を儲け、その次男俊家の孫通基の娘は坊門信隆の元へ嫁ぎ、殖子を産みます。
殖子は「平家物語誕生」でもよく出てきた高倉天皇の妃の一人で守貞親王、後鳥羽天皇を産みました。伊周の血は遠いですが皇統に繋がったのです。
また妹の方は最初中宮彰子の女房をしていましたが、藤原良頼(隆家の子)そして能信(道長の四男)の妻となっています。

その他、俊家の長男は持明院家となって鎌倉時代にいろいろ婚姻し、後堀河天皇は西園寺家にも血が流れています。娘全子は摂関家の師通の妻となって(後離別)、忠実という嫡男を産んで摂関家にも流入しています。

また隆家の子孫も坊門家となり、やはり殖子から皇統へ繋がり、また平清盛の継母で池禅尼や、将軍源実朝の正室なども輩出して歴史を賑わせています。

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