第71回 阿野全成
義経に近しい人が次々と処分されていく中で、同母兄の全成が悠々と頼朝の生前には生きていたのは不思議です。よほど信頼されていたのですね。
全成は源義朝と常盤御前の第一子。義朝の子としては七男となります。
1159年12月、平治の乱で父は亡くなり、常盤御前は7歳の今若(全成)、乙若、生まれて間もない牛若を連れて雪の中を彷徨います。
結局、敵の平清盛に身を預ける事で、3人の息子の命は救われ、今若は醍醐寺に預けられます。
「悪禅師」とかいう異名もありますが、本当の行状はどうだったのでしょうか?
1180年4月、以仁王の令旨を見ると血が騒ぎ、8月に異母兄頼朝が挙兵したと聞くと、10月1日、弟達の中では一番に頼朝に対面を果たし、やはり頼朝は泣いて喜びました。(後の義経の時も)
全成は頼朝の妻政子の妹阿波の局を妻としました。6男2女がいますが全て阿波の局が産んだかは分かりませんが夫婦仲は良かったようです。
1185年3月壇ノ浦の戦いで、父の仇平家を滅ぼしたものの、同母弟義経は頼朝から追われる身となります。もう一人の弟、円成はもう敗死しています。
義経逃亡の中で、生母常盤も行方不明となりますが、全成は薄々処刑されたと思っていたでしょうか?
結局義経は、1189年奥州で亡くなり、首が鎌倉に届けられましたが、またそれをどんな気持ちで聞いたのでしょう。あるいはもう達観していたか?
1192年8月に頼朝の次男(本当は三男)実朝が生まれた時に全成夫妻は乳母になります。長男頼家の乳母は比企氏となっています。
1199年1月、頼朝が亡くなり、18歳の頼家が2代将軍になるにあたって、北条対比企の対立が激しくなります。
頼家は自分を廃して、弟実朝を将軍に擁立するのではないかと疑い、1203年5月、叔父である全成を捕縛させ常陸に流し、そして6月、八田知家に誅殺させています。全成、享年51歳。源義朝の最後の生き残りでした。
全成の子、頼全も京都で殺されたり、下って1219年源実朝が暗殺された後、時元も謎の謀反で敗死しています。
娘の一人が京で、藤原公佐(実父は成親:鹿ケ谷の変で流され殺害)の妻となり、子孫が現在にまで繋がっています。
その中の阿野廉子は後醍醐天皇の寵妃となり、後村上天皇を産んで、南朝の花となりました。その子孫は「後南朝」となり今でも灯を繋いでいます。
全成の歴史的生命の強さを感じます。
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