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第7回 平重盛の先祖は紫式部?

宗仁親王が立太子した康平5(1103)年12月、院の近臣で白河法皇(51歳)の寵が厚かったという高階為章(ためあき)が45歳で亡くなりました。寵が厚かったという事は寝所にも従ったのかも知れませんね。この頃というか明治になって西洋文明になるまで男色は普通の事だった様です。(信長と蘭丸とか。ザビエルも驚いていたとか)
非情に寵愛され、一度家族の連座で流されそうになった時、法皇が止めたそうです。「逮捕させないから」は現代でも政治家が言っていますね。

さて、この為章の父は為家。大宰の大弐・高階成章(なりあき)と、紫式部の娘賢子との間にできた男子です。
また為章は妹の子を養子として基章としましたが、その基章の娘は、平清盛の最初の妻となっています。(若くして亡くなり、後妻に時子が来ました)
そして重盛と基盛を産みました。特に重盛の方は一時平家の惣領となり(42際で亡くなりましたが)また多くの子を成しています。

源頼朝から激しい平家狩りにあいましたが、いまだにその子孫の一部は生き残っていると言われます。長男維盛が高野山を放浪した時にできた子の子孫が現代で名乗り出たり、また次男資盛の子が平盛綱で鎌倉幕府に仕えたとか、更にその子孫は長崎氏となってまた権勢を振るったとか。
鎌倉幕府滅亡の時に多くは亡くなりましたが、一部は生き残ったと言われています。
また別の資盛の子孫が生き延びて織田信長になったという話もあります。
ただ、これは「源平交替説」があり、足利氏(源氏)の次は平氏の子孫と言う流言があったので、これに乗っかっただけという説もありますが。

ところで別説で清盛の妻となった女性の実父は藤原忠実という話を今、思い出してしまいました😱
そうではないとう反論もあり、歴史の真実は闇の中です。一応、重盛の先祖に紫式部がいるかも知れないという可能性だけ示します。(後半かなり弱気笑)

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