見出し画像

第9回 冷泉院(4)

即位式、大嘗会の行幸と無事、大事な儀式が終わってほっとした翌年、冷泉天皇女御の懐子(伊尹の娘)が二度目の懐妊をし、安和(あんな)と改元されたその年の10月、皇子を産みました。師貞親王、後の花山天皇です。

皇子が生まれて俄然藤原氏の意気込みは強くなりました。藤原氏といってももう分裂しかけていて、関白の実頼は自らの事を「揚名(ようみょう)関白」-名ばかりの関白と嘆いていましたし、伊尹には同腹の弟が二人いたのですが、次弟の兼通は陰気なのかあまり相手にせず、5つ下の陽気で出しゃばりな兼家の方を可愛がっていました。
兼家には第二夫人に『蜻蛉日記』の作者もいて、夫の浮気を嘆いているのを書いていると聞くと、「もっと書いてくれ!その方が後世に名が残る」とまあ道長の父らしい感じの人です。
兼家の娘には冷泉天皇の女御となる事を許しました。超子です。(後に三条天皇などを産みました)

さて、気が熟したとして翌安和2(969)年3月26日、左大臣源高明は女婿為平親王を奉じて謀反しようとしたと密告があり、本人は出家してもちろん否定したものの、大宰府への左遷が決定しました。『源氏物語』でも光源氏が須磨に自分から流れていくのが3月20日過ぎとされていますので、読者はこの安和の変の事を思い浮かべたでしょう。

もうすっかり用済みとなった冷泉天皇は、その年の8月、弟の守平親王に譲位となり、新東宮には生後1年になっていない師貞親王が立てられました。伊尹には邪魔な高明を放逐し、外孫を東宮にして笑いが止まらない所です。
(その3年後に糖尿病で亡くなりましたが)

冷泉天皇は在位2年半で、訳の分からない内に上皇とされ、その生活は40年以上も続きました。(続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?