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第48回 後白河法皇(13)源義経(後篇)

2月の屋島の戦いの後、僅か1ヶ月で壇ノ浦の戦い、平家は滅亡し、義経は三種の神器のうち、剣は捜しだせなかったものの、京に凱旋してきます。後白河法皇は褒めた事でしょう。そして平宗盛の大路渡しを見物したのでした。
4月、義経に東国に帰還及ばずという命令が頼朝から来て怪訝でしたが、5月には宗盛を鎌倉に連れてこいと言われ、取り越し苦労であったかと義経は思います。
しかし5月、宗盛を渡すと、義経は鎌倉に入ってはならぬとのお達し。6月に傷心の義経は帰京します。入京直前に、宗盛父子を斬り、首がまた大路を渡され、またも法皇は見に行っています。

義経は本当に体調を崩したのでしょうか、病気と称します。
7月に京では大地震があり、人々は平家の怨霊かと怖れます。
8月14日に文治と改元し、その28日には奈良で焼け溶けていた東大寺の大仏が再造され、その開眼の式に法皇は自ら正倉院を開けさせ、天平の筆を持って、梯子を使って眼を入れる動作をします。
「何という俗物根性」 反法皇派の九条兼実は「本来開眼は仏師の仕事。法皇はいつから仏師になられたのか?」と苦言を呈しますが、厚顔の後白河法皇には痛くも痒くもありません。

ここで鎌倉方はずっと揉めていました。義経の処遇をどうするか?長い人質生活で人を信用しなくなった頼朝は、異母弟の義経の存在が恐くて仕方ありません。自分に取って替わるのではないかと。しかしはっきりした理由もなく大っぴらに討つ事はできません。そうなれば後世への評判が下がります(もうだいぶ下がってますが)。そして10月に土佐坊昌俊を刺客として送りますがもう情報は分かっていて、返り討ちに合います。

義経は決めました。17日に夜討ちされた翌日、法皇に願い出てついに「頼朝追討」の院宣を貰います。法皇があっさり渡した所を見ると義経が勝つと思っていたのでしょうか?それともその場の成り行きでしょうか?
頼朝はそれを聞いて、まず畿内の武士に義経に味方せぬよう徹底させます。そして自ら軍を出すといいます。
義経は500しか兵が集まらないので、とりあえず頼朝の命令があまり届かない九州に行って兵を集めようと、尼崎から出向します。法皇はこの時、連行されるのではないかと恐れましたが、義経はそんな事はしませんでした。
しかし旧暦11月3日といえば今の12月。冬の嵐にあい、今まで暴風を味方にしていた義経も運には逆らえず、船は難破してしまします。機を見るに敏な法皇は早くも11月7日に今度は義経追討の院宣を出します。近く来る北条時政への弁明のためでした。頼朝追討から急転、こんどは義経追討を出した事に頼朝は「法皇は日本第一の大天狗か」と言い放ったと言われます。
頼朝は結局京に来ず、名代として舅の時政が来たのでした。

義経は一転「逃亡者」になりました。そして吉野山から「勧進帳」で有名な安宅関を超えて少年時代世話になった奥州の藤原秀衡を頼ります。後白河法皇にああは言いながらも匿われたという話もありますが。
ところで弁慶は本当に重源の勧進の願いを何百枚も手伝っていたと言われ、諳(そら)んじられるようになっていたのでしょう。また、頼朝はわざと奥州まで逃げしてどちらも倒そうとしたのは少し推理がうがち過ぎ?

結局、壇ノ浦の戦いから4年後の1189年閏4月、義経は衣川の館を頼朝から強迫されていた藤原泰衡に襲われ31歳の生涯を終えます。その泰衡も家来に殺され、泰衡を殺した家来も首を持っていって「主殺し」が大嫌いな頼朝の不興を買って殺されてしまいます。

後白河法皇は義経の死を聞いてどう思ったでしょうか?今まで自分が間接的に死に追いやった人々、崇徳上皇・信西・信頼・平家・義仲の事がよぎったでしょうか?

さて、恐い義経を滅ぼし、奥州も自分のものにした頼朝が1190年に上洛してきます。後白河法皇にとって、次は頼朝との駆け引きの対決です。(続く)

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