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第57回 九条兼実(1)

前回、土御門通親のライバルで追放された九条兼実は、摂関家の忠通の六男として1149年に生まれました。
この忠通という父親、不思議と男子に恵まれない方なのかなと思っていましたが、今回調べると18歳と22歳の時にそれぞれ身分の低い女性2人に男子を2人産ませています。その2人は僧籍に入れられ、それぞれ興福寺別当や天台座主になっています。正室にも男子(三男)が産まれた様ですがその年の内に早世した様です。

それで忠通は父忠実の勧めもあったのでしょうか、1125年29歳の時、悪名高き(その時は可愛い)異母弟で6歳の頼長を養子とします。
ところで忠実と忠通の父子関係も最悪で理由は、父忠実が白河法皇の不興を買って引退同然に追い込まれたのに忠通が覚えが良かったというもので、一つ一つが保元の乱の遠因になっていきます。
頼長は男色交遊の方で有名ですが、幼い頃落馬したのが原因で猛勉強したらしく「日本第一の大学生(だいがくしょう)」と賞賛されています。しかしその分、人に対して苛烈で妥協を許さず、恩赦で許された罪人をけしからんと言って暗殺させたり、我が強く人の言う事を聞かなかったので「悪左府(左大臣)」と言われていました。結局、保元の乱でも、「こちらは人数が少ないので夜討ちを」という源為朝の進言を蹴ったため、敗死する憂き目となります。

ところで頼長を養子にしてから18年後、別の女性に久々に四男基実が生まれます。異母弟より我が子が可愛いのは当たり前の事。47歳の忠通と24歳の頼長は次第に対立していきます。
これに味をしめたのか忠通は49歳の時にまた別の女性(先ほどの女性の妹とか)に五男基房、そして53歳の時に家女房に六男兼実を儲けます。この家女房は気に入っていたのか、兼実を含めて4人の男子を儲けます。(最後が59歳の時に儲けた十一男慈円)

本来なら母の身分が低いので兼実も僧籍に入れられそうでしたが、その聡明さを惜しんで異母姉聖子が猶子として援助します。
聖子は正室の子で、崇徳上皇の皇后となったのですが、子に恵まれませんでした。それで崇徳上皇の異母弟近衛帝の養母となって一生懸命養育したものの近衛帝は17歳で病死。その後、保元の乱となって崇徳上皇は讃岐へ流されます。
27歳下の兼実は異母弟ですが、聖子は愛情を持って接し、16歳で内大臣、18歳で右大臣に出世します。
時はちょうど平氏の全盛期。兼実が右大臣に昇進した翌年の1168年、平清盛が太政大臣になります。しかし摂関家の御曹司であるというプライドから平家の全盛を快く思っていませんでした。ただ非難をする訳でもなく、不平不満は全て日記『玉葉』に記します。それは後白河法皇に対しても同じでした。(長くなってきたので続きは明日に!ごめんなさい!)

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