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第35回 璋子の死

華々しかった前半生と違って、年々斜陽を感じる待賢門院・璋子(43歳)は康治2(1143)年7月、法金剛院から、実の娘統子内親王(18歳)の住まう三条西殿に同殿しました。もう一人の皇女は10年前に12歳で亡くなっていました。
9月に三条西殿は焼亡し、璋子らは三条西洞院第という所に移っています。この時は鳥羽法皇が心配して臨御しています。
10月に璋子の産んだ第三皇子・君仁親王が六条殿で19歳で亡くなりました。足腰が立たず、寝たきりの薄幸の生涯を璋子は悲しんだ事でしょう。璋子は5皇子2皇女の7人を産みましたが、3人が早世しました。

翌年正月11日、璋子は円勝寺の法会に崇徳上皇と四ノ宮雅仁親王(後の後白河天皇)と共に御幸しました。後で鳥羽法皇も渡御し、久々の親子水入らずとなりました。
その年の4月にはずっと璋子の味方をしてくれた太皇太后令子内親王(白河法皇皇女)が67歳で亡くなり璋子は一層心細くなりました。機を見るに敏な者は手のひらを返す様に、璋子方から得子の方に走っていたからです。

天養(7月に久安に改元:1145)年3月、璋子は鳥羽法皇、崇徳上皇と共に宇治に御幸しました。平等院ももちろん行ったでしょうか?
しかしその翌月の4月から璋子は三条高倉題で病床に臥しました。
もちろん崇徳上皇も見舞いに来ましたが、8月に入って璋子の病状は重くなり、8月10日には鳥羽法皇が見舞いに来ています。
法皇は、いろいろあったものの、璋子とは28年の結婚生活。その美貌には今も憧れていました。
そして8月22日酉の刻といいますから、午後6時でしょうか、璋子は45歳で崩御しました。鳥羽法皇が傍らにいて磬(けい)を打ち、号泣されたと言う事です。崇徳上皇や雅仁親王、統子内親王なども控えていた事でしょう。

本人の希望で、火葬をせず、法金剛院の裏山に花園西陵に璋子は娘の統子内親王と共に眠っています。私も一度だけお参りしました。
11年後、保元の乱が起こり、崇徳上皇と後白河天皇が悲しい兄弟の戦いをするのを見ずに身罷ったのはせめてもの幸いでしょうか?(続く)

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