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第119回 頼通の太政大臣拝賀式での出来事

康平4(1061)年、4月13日、左大臣教通(66歳)の長男の信家が43歳で亡くなりました。官位も権大納言まで昇っており、時代を担うと期待されていて、教通は嘆いていました。

それから7カ月ほど過ぎて、11月22日、関白頼通は七十の賀を催しました。そして官位は頼通に決定権があるので手前味噌で、12月に太政大臣となる事を決めました。大宮彰子(74歳)にもちろん承認を取って。
本来なら、父道長の様に全てを手に入れ、「望月の欠けたる事もなしと思えば」の状態で、太政大臣就任をしたかったでしょう。しかしいまだに娘・皇后寛子の懐妊の兆しなく、後冷泉天皇が退位すれば、今まで冷遇してきた東宮尊仁親王の即位が待っています。
この頃何度か東宮御所は謎の火事が起こっており、その度に尊仁親王は逃げて大丈夫でしたが。

12月13日、頼通の太政大臣就任の拝賀式が行われ、教通が跪(ひざまず)いて拝礼しました。
恐らく宴の席でしょうか。高松方の異母兄の能信(67歳)が教通に「左大臣たる者、あそこまですべきではない」と非難します。
すると教通は、この年長男を亡くして辛い気持ちを抑えて儀式に臨んでいたのにこんな非難をされて激昂します。
「父道長から、これからは兄頼通を父と思って接する様にと命ぜられた。所詮、妾室の子に過ぎないそちら側の者たちにはそんな故実は伝わっていなかっただろうが」と教通は侮蔑したのでした。

一触即発になりかねない所を周りの者たちは止めたでしょう。能信の同母兄頼宗は高松方と協調していましたし、能信の同母弟長家(定家の祖)はこんな事もあろうかと道長の画策により、幼い頃から鷹司方の養子になっていました。
大宮彰子や後冷泉天皇の乳母・賢子が同席していたかは分かりませんが、摂関家の将来を案じた事でしょう。(続く)

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