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第10回 摂関家のピンチ

堀河天皇が29歳の若さで崩御し、僅か5歳の鳥羽天皇が即位した嘉承2(1107)年7月の事。当時、堀河天皇の関白を30歳の忠平が務め、改めて鳥羽天皇の摂政になろうとしました。
ここで、鳥羽天皇の外伯父である権大納言藤原公実(55歳)が、忠平は外戚ではないのだから、まろが摂政になるべきだと主張してきます。

治天の君(実際に治める人)である白河法皇は同年の仲の良い従兄弟(法皇の母と公実の父が兄妹)であるし、公実の妻は堀河天皇と鳥羽天皇の乳母を務めています。そして最近お気に入りの養女・璋子の実父でもありました。
法皇の心は揺れます。
しかし公実の上位であり、院の近臣でもあった大納言源俊明(64歳)が「師輔の弟公季から五代も傍流である公実を摂政にするのは不当であると主張して、忠実は摂政となる事ができました。

源俊明とは、あの安和の変で流された源高明(光源氏の有力なモデル)の曾孫で、父は「宇治大納言物語」や「今昔物語」の作者にも擬せられている隆国で、弟にはこれまた「鳥獣人物戯画」の作者に擬せられている鳥羽僧正・覚猷(かくゆう)がいます。才能に溢れた家系とは思いますが、高明が流されたせいで家訓として権力者にぴったり寄り添うという事で、隆国は関白頼通に追従して東宮時代の後三条天皇を圧迫した様ですが、後三条天皇は仕返しする事無く隆国やその息子たちを使ったという事です。
まあ子息たちが優秀だったからでもありますが。俊明も剛毅ではっきり物を言う人だった様で、今回の様に正論を臆せず言ったのでしょう。

そしてこれから忠実の「御堂流」と呼ばれる道長から続く摂関家宗家は、天皇の外戚であるなしに拘わらず、摂政・関白についたという事です。まあこの時が摂関家最大のピンチだったかも知れません。

ほっとした忠実でしたが、逆に摂政になり損ねた公実はがっくりしたのでしょうか、4カ月後の11月に55歳で亡くなっています。(続く)




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