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第52回 陽成天皇の即位

貞観19(877)年正月3日、10歳になったばかりの陽成天皇の即位式が豊楽(ぶらく)殿で行われました。前年末に践祚はしていたのですが、初春に慶事を行ったのでしょう。
生母の高子(36歳)は皇太夫人(後に中宮)となりました。
この時、兄の基経(42歳)は高子の一瞥する様な眼差しを見て感じました。
「高子は、私に復讐しようとしているのではないか?」
業平との出奔を取り戻しに行ったのはともかく、清和天皇の精神不安につけこんで女性を多く送り込み、自らの娘2人も送り込んだ事を高子は非難の眼で見ていたからです。
『先代の様にはいかぬかも知れぬな』御しやすかった清和天皇とは違う脅威を基経は感じていました。
やがて但馬国から「白雉」(はくちー白い雉)が献上されて、瑞祥だとされましたが、基経は嫌な予感がしていました。

その頃、業平の舅、紀有常(63歳)が病床に臥していました。清らかで慎ましく、礼に明るいという評判の有常でしたが、晩年熟年離婚をして姉の尼の元に行った妻の事に関して友人と語った話が『伊勢物語』第16段にあります。
有常「手を折りてあひみしことを数ふれば とをといひつつ四つは経にけり」-指を折って、共に暮した年月を数えてみると、十年といいながらそれを四回も過ごしてしまった事だった(四十年も過ごして来ていたのであった)。
夜具まで送ってくれた友「年だにもとをとて四つは経にけるをいくたび君をたのみきぬらむ」-非情に過ぎて行く年月でさえ四十年も経過したのに、その間貴方の妻は、何度貴方を頼りに思って生きてこられた事でしょう。
夜具を貰った有常は2首詠みます。
有常「これやこの天(あま)の羽衣むべしこそ 君がみけしとたてまつりけれ」-これが本当の「尼の羽衣」ですね。「天の羽衣」なればこそ、貴方のお召し物として身につけておられたのも道理、と思われますー「天の羽衣」に「尼の羽衣」を懸ける洒落と、立派なものを頂きましたという感謝の意味があると言われています。
有常「秋やくる露やまがふと思ふまで あるは涙の降るにぞありける」-秋が来て本当に露が結んだのか、それとも露が間違えて季節外れに結んだのか、と思うほどなのは、私の喜びの涙が降るのであったよー喜びの涙で袖が濡れるのを、露のせいかも知れないと懸けて言うのが当時の発想だったそうです。

熟年離婚が本当だったかどうかは、虚実混ざる『伊勢物語』なので分かりませんが、有常の妻は「藤原内麻呂の娘」とあります。そうすると良房や良相の叔母という事ですが、姪の順子は仁明天皇の女御になっているので格下の紀氏との婚礼は少し不思議な感じがしますね。
ただ、順子が産んだ文徳天皇の更衣に有常の妹・静子がなり、第一皇子惟喬親王を産んでいるあたりも何か関係があるかも知れませんが。

尚、前述したかも知れませんが、有常のもう一人の娘婿は藤原敏行で、業平と敏行は舅の臨終・葬儀で協力したかも知れませんね。(続く)

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