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第2回 朱雀院(2)

実存の朱雀院が生まれたのは、延喜23(923.4月に延長と改元)年です。
その年の春に、生母の、弘徽殿の女御のモデルともなっている穏子(関白・故基経の娘)は38歳で久々に懐妊した事が分かりました。
ところがその年は咳病(現在のインフルエンザ?)が大流行し、穏子所生の東宮保明(やすあきら)親王が3月21日、21歳で亡くなってしまったのです。
時は20年前に、大宰府で亡くなった菅原道真の怨霊が跋扈しているという噂で持ちきりでした。ちなみにこの若くして亡くなった東宮は、『源氏物語』では六条の御息所の夫であった東宮のモデルではないかと言われています。

嘆く宮廷。4月11日に長年親しまれていた延喜という年号を道真が恨んでいるかも知れないという事で延長と改元しました。
更に4月20日、道真を元の右大臣に戻し、正二位を追贈しました。
4月26日、落ち込む穏子に中宮(皇后)が与えられました。
そして4月29日、亡き保明親王の子、慶頼(よしより)王(3歳)を東宮に立てました。

そして7月24日、穏子は兄である左大臣忠平の五条第で皇子を出産します。寛明(ひろあきら、ゆたあきら とも)親王と名付けられたこの皇子は怨霊に襲われないように邸の奥で几帳に囲まれ、灯火のもとで育てられました。それは3年間続いたといいます。
ご承知の様に、日光に子供を当ててこそ健康に成長します。(最近は皮膚がんの心配もありますが)暗い中で育てられて寛明親王は青白く病身でした。

2年後の延長3年、今度は天然痘が流行し、その中で6月19日、東宮慶頼王は5歳で亡くなり、人々はまた道真怨霊を怖れたのでした。
10月21日、数え3歳の寛明親王は東宮となります。しかし忠平は醍醐天皇と穏子に「もう一人皇子をお産みなさるようお願いします」と頼みます。(何だか現代でも同じ様な話がありましたね)
そして翌年6月、穏子は41歳にして皇子・成明(なりあきら:後の村上天皇)親王を出産するのでした。成明親王は健康に育てられる事が優先され、病弱な兄・寛明親王より期待されるようになってしまいました。(続く)

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