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第26回 殿上の闇討ち

璋子が白河法皇亡き後の身の不遇を嘆いている頃、武士の世界にも変化が起こっていました。摂関家全盛の時には河内源氏(清和源氏が一般ですが、実は清和天皇の皇子ではなく、陽成天皇の皇子から出たという説を支持します。陽成天皇も清和天皇の皇子ですから結局は清和天皇の子孫ではあるのですが)が勢力を振るっていました。
摂関家勢力を弱めようと思っていた白河法皇は桓武平氏の平正盛を重用します。ただ全く源氏を無視する訳でもなく併用する形でした。

源氏の棟梁為義と平氏の棟梁忠盛は奇しくも同い年でした。しかし為義は部下の躾が悪くよく狼藉をし、また為義も何故か別の事件の犯人をよく匿っていたので(人情に篤い?)徐々に白河法皇そして後を継いだ鳥羽上皇の信任を失っていきます。結局為義は、もとの摂関家の当主忠実・頼長に仕えます。(これが保元の乱で頼長に付いた理由と思われます)

さて忠盛の方は順調で鎮西で宋との貿易を始めたりして資金が潤沢でしたので、鳥羽上皇に得長寿院を建てて寄進し(清盛もまねて後白河法皇にしました)、上皇は天永3(7月に長永と改元)年3月、37歳の忠盛に院の昇殿を許すという名誉を与えます。
しかしそれに公卿たちは嫉妬します。
「いくら桓武の帝の末裔とはいえ、田舎武者ではないか!」

その年の11月23日、五節に事寄せて、内裏に参上する時に忠盛を闇討ちしてしまおうという計画が成されます。情報通の忠盛は参内する時は持っていてはいけない刀を腰にさし、心配していた家来の家貞(51歳)は庭に控えます。
待ち構える公卿の前で、忠盛は刀を抜いてみせます。そして庭にいる家貞を見て公卿たちは闇討ちを諦めます。
そして鳥羽上皇の前で忠盛が見事に舞うのを見て、公卿たちは囃し立てます。
「伊勢瓶子(へいじ)は素瓶(すがめ)なりけり」
伊勢の徳利は粗悪で、瓶にしか使えないという意味ですが、実は忠盛は「すがめ」-斜視であったのをそれを侮辱した野次だったのです。実に陰険ないじめですね!
忠盛は耐えてその場を退出しました。ずっと心配している家貞が「いかがでしたか?」と聞くのに真実を言えば、怒って斬り込みかねないので忠盛は「いや、何事もなかった」と言って、刀を近くの女房に渡して帰ったそうです。
公卿たちの追い打ちは執拗でした。「忠盛は禁じられている帯刀をして、家来を忍ばせていた」
鳥羽上皇は困って忠盛を召し、尋ねますが、忠盛は「刀は木に銀箔を張り付けたものです。女房に預けましたのでお改め下さい。家来は心配して付いて来ていたのです。申し訳ございませぬ」と述べました。確かめてみるとやはり木に銀箔をつけたもので、鳥羽上皇は喜んでお咎めなしと言う事でした。
その時、清盛は15歳。父の冷静な行動を尊敬した事でしょう。そして陰湿な公卿と対峙する事も感じたのではないでしょうか?(続く)

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