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第116回 頼通の野望の失墜

頼通の養女・嫄子が入内した年の7月、賢子が乳母をしている親仁親王が13歳で元服し、大宮彰子に参観しに来ました。
彰子も50歳。生まれてすぐに母を亡くした孫の親仁親王の成長を喜んだ事でしょう。何より全幅の信頼を寄せていた香子(紫式部)の娘・賢子が乳母をしてくれているので安心でした。
8月に親仁親王は立太子し、12月に亡き後一条天皇の皇女・章子内親王(12歳)を妃とします。恐らく全て大宮彰子の采配だと思われます。
彰子は今や皇室・摂関家を統合するトップに君臨していました。それもあまり威張らずに。控えめなのは香子の影響でしょうか?

嫄子は懐妊し、翌年4月に出産を迎えます。皇子を期待する頼通。彰子も亡き養子敦康親王の実子である嫄子の皇子誕生を望みます。

これに反して皇子が生まれたら、新東宮の芽がほぼなくなる尊仁親王とその母禎子内親王は不安の日々を送ります。内親王を応援する能信は支えます・禎子内親王の母妍子は頼通の同母妹で鷹司方なのですが、対抗する高松方の能信が応援する形って面白いですね。

結局生まれたのは皇女で、頼通は落胆し、禎子内親王は安堵します。
この年、賢子は40歳で、夫・高階成章との間に初めての男子・為家を出産します。この為家の子孫は曾孫は藤原能兼で、能兼の娘能子の娘在子は後鳥羽天皇に入内して土御門天皇を産み、その皇統は現在に繋がっています。

嫄子は再び懐妊し、頼通はまた皇子誕生を期待します。
しかし翌長暦3(1039)年8月に生まれたのはまた皇女で、更に出産9日後に嫄子も24歳で亡くなってしまいます。重圧もあったのでしょうか。
頼通の野望は潰えました。
「父上(道長)にはすぐに立て続けに二人もの皇子が産まれたというのに。私はやはり父上と違うのだろうか」
しかし不運を嘆く頼通には愛人宅に4歳の実の娘寛子がいました。
「10年後また・・・」捲土重来を期す頼通でした。

嫄子の四十九日が明けた11月に、今度は頼通の同母弟・教通が26歳の娘・生子を入内させます。
「ずっと待っていたのだから。それに父上(道長)は兄上の後の摂関は私にと言っていた」
と教通は主張します。頼通は嫄子が亡くなった同じ年に娘を入内させた弟に余り良い印象を持ちませんでした。頼通は高松方に続いて同じ鷹司方でも敵を作っていく事になります。

嫄子が亡くなってから、遺された姉宮の祐子内親王の元に菅原孝標’(たかすえ)の娘(32歳)が出仕します。『更級日記』の作者です。少女時代、大変『源氏物語』Loveでしたから同じ宮中にいる紫式部の娘・賢子には交流を求めてきたでしょうか?(記録はありませんが)翌年、結婚して宮中を去ります。

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