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第33回 敦康親王

香子が夫を亡くして悲しみにくれていた年の8月、数え年3歳の敦康親王は中宮彰子の御所藤壺で魚味始めをします。初めて魚を食べる儀式です。
敦康親王は母定子を8か月前に亡くしていました。お世話は道隆の四女のがしていた様です。この四女の方はやがて一条天皇の愛を受け、翌年懐妊します。

しかし四女の方はやがて懐妊したまま謎の急死をします。道長の影を感じない訳にはいきません。

次女原子は東宮居貞親王の妃、三女は敦道親王の妃となっていました。この三女の方はなぜか奇行が多く、自邸で歌会を開いた後、砂金の袋を皆に投げ与えたり、高貴な身分の方なのに客人が来ていても胸をずっとはだけていたりしたそうです。
『源氏物語』の髭黒大将が新しい妻玉鬘の所へ行こうとした時、気が触れた古妻は火桶を大将に投げつけ灰だらけにして高笑いします。三女の逸話も入れているのでしょうか?

11月には敦康親王はまた彰子の御所藤壺で今度は著袴(ちゃっこ・・今の七五三に当たる)の儀式をします。
道長はいろいろと考えています。彰子にもし皇子が産まれない時は、敦康親王が皇太子になる。その時を想定して、彰子を養母格として親王を取り込んでしまおうとしていたのではないでしょうか。
敦康親王への道長の態度は丁重でした。彰子は本当に我が子の様に可愛がります。
しかし7年後、彰子に皇子が生まれた事で、道長の態度は一変します。
彰子の敦康親王への愛は変わりませんでした。一条天皇が臨終の時、次の東宮(皇太子)を道長が無断で彰子の産んだ皇子にすると、彰子は「なぜ敦康をしないのですか!」と涙ながらに抗議しています。ここから道長と彰子の間が少しぎくしゃくします。彰子はすでに道長の人形ではなくなっていたのでした。まだこの時は少女でしたが、香子が紫式部として女房になって学問を教えてから感化されたのでしょう。

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