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第97回 道真の怨霊続く。

追記:以前紹介した右近の「人の命の惜しくもあるかな」は心配だけでなく、皮肉も込めたものであるという解釈も多い様です。いろんな解釈ができるのが文学の楽しみですね!

さて、17歳で退位に追い込まれた陽成上皇は乗馬と歌合をやり、60歳近くになっても壮健でした。下々の者を御所に居れたり、盲人の保護をしていました。しかし延長2(924)年6月に同母弟の貞保親王が55歳で亡くなったのは寂しい事だったでしょう。親王は笛も琵琶も得意で世が世なら皇位に即いていた方でした。翌年正月、長男の源清蔭が42歳で参議に昇進し、喜びます。清蔭は能吏で官人の道を歩み始めたのでした。
しかしその年の春から夏にかけて天然痘がまた流行し、これも道真怨霊の祟りだと人々は噂しました。
4月2日に陽成上皇の妃綏子内親王(年齢不詳)が、4月4日には忠平の最初の夫人順子(道真の姪)が51歳で亡くなっています。

そして道真の怨霊を心配していた東宮慶頼王(醍醐天皇の孫)がやはりというか6月19日、5歳で亡くなりました。その父保明親王が21歳で亡くなったのに続いて醍醐天皇には衝撃でした。
8月に穏子の産んだ数え3歳の寛明親王(ひろあきら:後の朱雀天皇)が暗い邸の中から出てきて著袴をしました。しかし怨霊を怖れて、日光にも当てず灯火の中で育ったのでいかにも腺病質という感じでした。(平安時代の人は非情で、紫式部も『源氏物語』の中で「朱雀帝」と実名で出し、常に異母弟・光源氏の負け犬的存在で描きます)

「もう一人皇子をお産み下さい」
忠平は妹穏子に頼みます。翌年皇子が生まれました。(後の村上天皇ー現在の皇統に繋がります)
10月、寛明親王は東宮となりますが、醍醐天皇始め、人々は常に道真怨霊に怯えていました。そしてとどめの一発、宮中に落雷の事件が起こります。(続く)

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