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第50回 信西の挑発

鳥羽法皇の崩御で不安がる美福門院得子、後白河天皇、関白忠通に信西はあくどい顔をして提案しました。
「ここは先手を打って、敵を一網打尽にしなければなりませぬ」
「どうするのじゃ?」忠通は聞きました。
「相手に謀反を起こさせるのです。頼長を肥後に左遷するといえば、あやつは必ずや乱を起こすでしょう」
かつて後白河天皇の勉強係として共に学問について語り合った、相手を知り抜いている信西は不敵な笑みを見せました。
翌日、保元元(1156)年7月3日、宇治にいた頼長に、謀反の疑いありとして左遷命令と、頼長の所有する東三条殿の接収が行われました。東三条殿は後白河天皇の住まう今内裏の北にあり、広いので武士を集めやすかったからです。

同じ頃、せめて鳥羽法皇の遺体にでも面会したかった崇徳上皇はそれも拒否され、待機していた鳥羽の田中殿を出て、洛北の白河北殿に入りました。
白河北殿は、敬愛する白河法皇の御所の一つであり、「治天(ちてん、じてんとも)の君」の象徴の由緒ある邸でした。ここも広大な庭があり、軍兵には適していました。腹心の藤原教長が言いました。
「まだ公卿はあんな愚かな雅仁様を認めた訳ではございませぬ。ここで上皇様が号令し、重仁様を新たな帝として認めさせましょう」
崇徳上皇は放心状態のまま頷きました。

一方、突然の左遷命令に驚いた頼長は、狐につままれながらも、近習の武士を引き連れて、宇治から崇徳上皇がおわすという白河北殿に参上しました。そして言いました。
「新院様、数々のお仕打ちにお怒りございましょう。この上は兵をお挙げ下さいませ」
頼長とて黙って肥後に流される訳にはいきません。
「頼長よ、分かった。朕は兵を挙げる」
「御意、されば兵を集めます」
しかし信西がすでに有力な武士を集めていました。(続く)

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