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第73回 寛弘7年2月からの出来事

伊周が亡くなった翌2月、道長の次女で17歳の妍子(よしこ?)が東宮妃となりました。東宮は居貞(いやさだ、おきさだ)親王ですでに35歳で、第一皇子敦明親王は17歳で近く婚礼する予定です。
強気の道長は長女の中宮彰子に続いての布石を打ってきました。

東宮の妃方はもうすでに年を重ねており、妍子は若く美しいので、東宮はお気に召された様でした。
「古女房より新しいのがいいのかしら」香子は同室である小少将の君と語らいました。
この頃「玉鬘十帖」もほぼ完成に向かい、「梅枝」の前に入れて、33帖が繋がりをきちんと繋がるようになっていました。

7月には12歳になった敦康親王の元服式が行われました。妃は見送られました。養母の彰子は、自分が産んだ子でなくても4歳の時から手元で育てて来たので感慨ひとしおでした。ただ当の敦康親王は聡明なので、自分が定子腹であるし、伯父伊周も失意のまま亡くなったので、何となく明るくない自分の未来というものを感じていた様でした。

11月7日に、村上天皇の第4皇子であった為平親王が59歳で亡くなりました。一品(いっぽん)・式部卿の宮と皇族では最高位であったものの、かつて安和の変で源高明の娘を妃としていて藤原氏に警戒され、優秀であったのに東宮になれなかった親王です。
息子の源頼定も美男ながら、亡くなった東宮妃綏子と密通騒ぎをしたり、鬱屈しています。
姫が具平親王の妃となって隆子女王を産み、摂関家の御曹司頼通の正妻となっていました。だから頼通も喪に服しました。

同じ11月28日、何度も焼けた一条院がまた再建され、お祝いの叙位がなされました。
道長の倫子腹の15歳の教通が従三位、明子腹の18歳の頼宗が正四位下、17歳の顕信が従四位下、16歳の能信が正五位下です。
明らかに倫子腹と明子腹の子の叙位に差をつけています。
明子腹の能信は気が強く「何で自分たちより年下の教通の方がいつも高い位を貰うのだ!」と不満でした。
「我らの祖父源高明公と倫子様の父雅信公はどちらも左大臣なのに。高明公が流罪人であるという事か。しかしそれは無実の罪だという話ではないか」
能信の怒りは収まりません。
明子の高松方は日陰の身でした。一方、倫子たちの方はいつも優遇され、高松方を「あちら方の人」と呼んでいました。

香子はこの鷹司方(倫子)と高松方の隠然とした対立を不安視していました。いつか何か起こるのではないかと。しかしどうしようもない事でした。
そして翌年大変な事が起こります。(続く)

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