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第99回 宇多法皇の気がかり

醍醐天皇が46歳で崩御してから、父の宇多法皇(64歳)もさすがにがっくりとしていました。かつては法皇派・天皇派と対立していた時もありましたが、やはり我が子です。また前年の10月に愛する京極の御息所との皇子・雅明(まさあきら)親王が10歳で夭折した事も宇多法皇の悲しみを増していました。

翌延長8(4月に承平と改元:931)年に入ると、法皇は死期を悟る様になりました。
法皇は気がかりになる事はたくさんありました。まず9歳の幼帝・朱雀天皇は病弱ですが、これは弟の成明(なりあきら:6歳:後の村上天皇)親王が健康そうですし、穏子(47歳)や忠平(52歳)がついているので大丈夫でしょう。
次は若い妃、京極の御息所(31歳?)ですが、これも多くの財産を与えているので心配いりません。若いので誰かと結ばれるかも知れませんがそれも仕方ないと思っていました。(結局、独り身を通した?様です)

一番心配なのは、いまだ矍鑠(かくしゃく)として元気な陽成上皇(64歳)です。かつての自分の主人、そして皇位を奪った形となりました。
陽成上皇側が皇位を取り戻そうと動いたら・・・
これは忠平も同じ思いでした。父基経の正統な後継者を自認する忠平は、父の「黒歴史」とも言える「陽成天皇を退位させた」事を憂慮していました。
『これは、陽成上皇様に悪者になって頂く他はない。父上の名誉を守るためにも』
着々と手は打っていました。陽成上皇が悪逆非道の帝であったという記述は作ってありました。しかし上皇が存命の時はさすがに公表できません。

宇多法皇は自分から誘って、陽成上皇と高名な僧の見舞いに行ったりしました。
そしてこの年の初めには、上皇の長男である源清蔭(48歳)に醍醐天皇の皇女を法皇の仲介で婚礼させたり、陽成上皇の懐柔に務めました。

忠平には男子がたくさんいましたが、勤勉さでは長男の実頼(32歳)、そして異母弟にあたる師輔(24歳)は陽気ですがなかなか腹黒そうで、忠平は自分と同じ匂いを感じていて、摂関家の主流は師輔に行く様な予感を持っていました。

そして宇多法皇は、「賜姓源氏から帝位に昇った」ただ一人の皇子として歴史に名を遺し、7月19日、65歳で崩御したのでした。(続く)

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