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第111回 公季(きみすえ)誕生、西園寺家の萌芽

師輔と康子内親王の事実婚状態は続きました。康子内親王は天暦10(957)年12月に内裏の中の承香殿(じょうきょうでん)に移ったという記録があります。また懐妊したからでしょうか?

翌年4月、藤壺で娘の女御・安子(31歳)の主催で師輔の五十の賀が盛大に行われます。宮中で行われたので、村上天皇(32歳)も臨御された事でしょう。
そして6月6日、康子内親王はまた男児を産んでその日の内に亡くなってしまいました。39歳。妊娠中の体調がひどく悪かった様です。(『栄花物語』)内親王の部屋からは夫・師輔のために縫った襪(しとうず:足袋)などが大量に入った唐櫃(からびつ)が見つかり、手先の器用な方だった様です。亡くなってから、康子内親王は改めて師輔の正室と称せられる様になりました。
師輔は嘆きますが、困ったおは宮雄君と名付けられた男児です。前に産んだ子はすぐにお寺へと行かせましたが、今度は女御安子が自分の皇子たちと一緒に育てると言ってくれました。その時、東宮の憲平親王は8歳、次に生まれた為平親王は6歳だったからです。

2年後に更に安子は守平親王(後の円融天皇)を産みます。皇子たちは一緒にご飯を食べる訳ですが、宮雄君の膳だけ少し低い物を使ったとあります。しかし幼児ですから控える筈もありません。円融天皇は昔を回想して「公季には年少の時、ずいぶんひどい事をされた」と語っていたそうです。
2つ下ですから7歳だったら5歳。頭の一つも張り飛ばしていたかも知れませんね。
宮雄君は元服して公季と名乗りました。師輔の十一男(十二男説も)として公季は閑院に住まい、娘の義子を一条天皇の女御とし、太政大臣にまで昇りましたが、皇子は生まれず、息子の実季も孫の公成も中納言止まりで衰運の傾向を見せていました。

しかし摂関家主流に対抗する能信が、公成の死後、公成の娘・茂子を養女として入内させ、白河天皇が生まれてこの閑院家は隆盛となってきます。
公成の孫・公実の妹は鳥羽天皇を産み、娘璋子は崇徳・後白河両天皇を産んでいます。
家も三条家・西園寺家・徳大寺家と分かれましたが、特に西園寺家は鎌倉幕府と結んで栄え、その後、一時落ち込んだものの、近代になって首相・西園寺公望を輩出しています。(続く)

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