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第11回 源義親の誅殺

堀河天皇が崩御し、鳥羽天皇が即位した嘉承2(1107)年後半、また源義親(生年不詳)の狼藉が激しくなってきました。彼は対馬守に任じられながら、九州各地を掠奪し、隠岐に流されたのですが、脱出して対岸の出雲の目代を殺害したというのです。父親の源義家は追捕を任じられましたが、それを苦にか病没しています。他の源氏も当てになりません。
作家・南条範夫氏は、義親がこんなに荒れたのは父義家から妻を寝取られ、ましてや子(為義)まで成した事に対する憎悪だったと推測されています。
史料が少ないため、真偽は分かりませんがその可能性もあったでしょう。父親が息子の妻に手を出して子供を産ませるというのは時々ある話です。(小説「暗夜行路」など。白河法皇も実行した。玄宗皇帝も息子の嫁の楊貴妃を奪った)

さて、源氏側も説得する者を遣わしましたが逆に義親に言いくるめられてその手下になる始末。まさに「ミイラ取りがミイラになる」です。
そこでその年の12月、白河法皇は寵臣の平正盛(生年不明)に追討を命じました。
正盛軍は義親を誅し、翌年正月29日、京にその首を掲げて凱旋してきました。石ノ森章太郎氏「マンガ日本の歴史」では、祇園の女御と一緒に車で見物に行った幼い璋子に「あんな皺くちゃなの、本物かどうか分からないじゃない」と言わせています。璋子は8歳になったばかりでした。

ここから源氏に代わって平氏が勢力を増していくという話になっていくのですが、前述の南条範夫氏は「生きている義親」の小説を出しているように、この先約20年ほど、義親と自称する者がまた乱暴狼藉をしては誅殺されています。
しかし白河法皇は、正盛を誤認逮捕だと責める事は一切しませんでした。
そして機を見るに敏な正盛は法皇の寵姫・祇園の女御に接近していきます。(続く)


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