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第33回 業平、東国へ(1)

皇太后順子(文徳天皇の母)は同母弟良相と仲が良く、しょっちゅう良相の邸に孫の清和天皇を連れて逗留していました。それで留守がちの東五条第の高子の所へ業平が忍びこめた訳ですが。恐らく良房は妹の順子にこっぴどく嫌みを言ったでしょう。「貴女がしっかりしないからこんな不祥事が起きた」そして順子は当て付けか本心か、伊都内親王が亡くなる半年ほどまえに出家しています。しかし更に良相の方を応援していました。

翌貞観4(862)年、業平38歳。正月に異母兄行平(45歳)は新たに信濃守になり、現地に赴任していきます。

そして3月に業平は不思議な叙位を受けます。正六位上から従五位上に叙するというのです。業平は849年に従五位下になりました。そしてまもなく出仕しなかったので一旦下げられたのかも知れませんね。そして今度昇格したのです。
更に業平はまた不思議な命令を受けました。那須温泉に視察に行きなさいというのです。仲間として同じく母を亡くして服解中だった紀継則(古今集で有名な友則の弟)や安倍貞則と一緒です。中間(ちゅうげん:雑用係)も入れて総勢7~8名で東国に旅する事になりました。

5月に恐らく出発します。『伊勢物語』第9段では、「その男、身を要なきものに思ひなして」とあります。ちゃんと官費で行ったのですがね。

三河の八橋という所で食事していると、かきつばたが面白い風情で咲いています。誰かが、「かきつばたという五文字を句のかみ(最初)にすえて旅の心を詠め」と言います。そして業平はさらさらと詠みます。
「唐衣(からころも)きつつなれにしつましあれば はるばるきぬる旅をしぞ思ふ」-着馴れた唐衣のように添い馴れた妻が都にいるから、はるばる来た旅の遠さが思われるー張る張る着ぬる・・遥々来ぬると掛けてます。

一同は食べていた乾飯(かれいい)に涙を落とし、ふやけてしまったという事です。乾飯は常備食だったのですね。
ところで私のだいぶ先輩の人は、学生時代おやつなんてないので生米を上着のポケットに入れてお腹がすくと食べていたそうです。ある時、逆立ちをしたら、ボタボタっと米が落ちてしまったと笑いながら話してくれたのをふと思い出しました。(続く)

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