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第3回 祇園の女御の娘

愛する夫と引き離され、白河上皇の想い人にされてしまった祇園の女御には前の夫との間に実の娘がいたという説があります。その娘は表向きは「妹」という事にして女房の様にされていました。何だか流行歌にも「人に聞かれりゃお前の事を 年の離れた妹と・・・」というのもあります。歴史書では「祇園の女御の妹」としているのもあり、この方が清盛の実母な訳です。
当時、院の近臣として頭角を現していた平正盛の嫡男忠盛に清盛を孕んだこの女性をそのまま妻を与えたという説があります。それはまだだいぶ先の話ですが・・・

ところで、一目ぼれした師子をめでたく妻とした摂関家の忠実との間には嘉保2(1095)年に姫ー後の泰子も生まれます。
しかし翌年、白河上皇に不幸が襲います。亡き最愛の中宮賢子の面影を一番遺していたであろう、郁方門院媞子内親王が8月7日、21歳の若さで亡くなってしまうのです。白河上皇派2日後、悲しみの余り出家して法皇となります。ただ、法皇となっても贅沢や女色は止める気がなかった様ですが。

その年、河内源氏の義家の嫡男義親に男児が生まれます。後の為義です。しかし一説にはこの為義の実父は義家であるとしています。どういう経緯か分かりませんが、やがて数年後、義親が荒れ狂い任地で乱暴するという原因もこの事かも知れません。

しかしこの時は義家はやっと白河法皇から認められ、承徳2(1098)年10月に60歳にして、院の昇殿を許されています。
その頃、白河法皇には心配がありました。媞子内親王以上に可愛い我が子・堀河天皇(20歳)にまだ子ができなかった事です。父・後三条天皇の遺言として異母弟の輔仁親王(26歳)をゆくゆくは帝位に即けよというのがありました。輔仁親王はまたなかなか英明な皇子でした。
白河法皇は仲の良い同年の従兄弟・公実の妹・苡子(しげこ:23歳)を堀河天皇の女御とし、皇子誕生を祈りました。
やがて苡子は懐妊しますが、残念ながら流産してしまいます。白河法皇の焦りはつのるのでした。(続く)

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